第3章 (7)そして我々は見放された

 正義とは不正を加えるもので、悪は不正を受けるということである。このことは前述のとおりで、ソフィスト派にとっての正議論である。不正が我々の関係をあるときは強化し、またあるときは破壊することは歴史を見れば容易に理解できることであろう。歴史とは、「何があったのか」「我々が何を(不正)をしてきたのか」ということを省みる行為である。我々は2つの歴史をもっている。1つは風土性にもとづく歴史であり、2つは客観性にもとづく歴史である。前者は特に和辻哲郎の『風土』や『倫理学』を参照されたい。後者は、現在の歴史観のあり方そのものである。よって、客観的な歴史は無数の主観的な(個人的な)歴史観との狭間でその純然たる<客観性>は見事に解体され、当に合理的な、というよりも「合目的な」歴史観が不安定にも完成されるのである。そうなれば風土性の歴史とどう違うのかという疑問もでてくると思う。



 風土性とはその気候、社会的環境によって地方別に作り上げられる。人間性も個別的に、しかしそれを包む共同体の中で育まれる。歴史は自ずからその内で綴られてゆく。歴史は個人に目を向けて描かれるのではなく、人間と自然との特別な関わりあいや、人間と神との対話や体面などの体験を題材にされなければならない。人々は自然に対して尊厳な態度をとり、自然は人々を恵む存在としてたち現れる。歴史はマナを含んでいる。神話化されるときもある。英雄化することもある。現代の我々はそれに対して強い疑問をもつかもしれない。もしくはあまりに非合理的であり、非現実的であるから、嘲笑するかもしれない。しかしながらそれらは彼らの風土のなかでは、立派な真理である。それゆえ我々はそれを否定してはならない。なぜなら否定した瞬間に共同体的な歴史を意味のないものへ陥れることになるから。



 対して、客観性にもとづく歴史とは、調査され、発掘され、復元されるためだけに再び綴るための歴史である。それゆえ、その歴史は些か我々の現代人としての視点を免れ得ない。歴史は現代という目から分離されずに、たえず現代の社会的な精神を反映されなければならない。その精神は集団意志ではなく、ときには個別の意志をまとめて一般意志にさせるものもあり、それが必当然的なものとなったとき、(悪しき)イデオロギーとなって我々の意志をコントロールする。このように客観的な歴史はその完全性から何にも否定されずにますます硬直する。ついには、否定するものを駆逐することになってしまうのである。それは風土性の歴史にみられる破門や追放などではなく、法によって行われる処罰である。社会的非難から、懲役まで含んでいる。そして我々現代人はこの(否定できないという)客観的な歴史観をたえず持たざるをえない。



 しかし、両者に共通するのは、両者が非常にソフィスト派の正議論に基づいているということである。つまり、それらは常に正義の歴史である。正義があるから非−正義、つまり悪も描かれる。歴史とはたえず争いのなかに生まれ、そして受け継がれるものであるが、そうなるとすれば我々は未来へ向けて、「いつ争いは終結するのか」という問いかけが生まれるのではないか。ところが我々は「争いは終わらない」ことを本心の中で静かに感じているのである。



 それは我々の社会原理にみることができる。つまり合理性、合目的性である。両者には大きな違いがあるが、本節ではその違いの説明は省かせていただく。合理性とは理性による人間の行動の支配である。常に理にかなうように我々は行動すると考える。その合理性を保つには、何か人間をコントロールするような規範が必要である。「契約」「法律」がそれである。契約によって我々は不正に対する損害の量を減らすことが出来るであろうし、法律によって新たな悪は生じないことになる。要は人間が人間だけで生きるとき、社会はそれ自体で存立できないのだ、それを可能にするための「能力」がなかったのである。



 近代はまさしく「能力開発」の時代であり、人間だけで生きるための可能性の探求であった。言い換えれば「神を殺す」ための方法論の模索であったのである。啓蒙は我々を覚醒させ、神のつながりから解放されたことは我々の行動範囲を広げ、自己目的の達成を認められるようになった。人々は教会ではなく、理性の丘に集い、「理性万歳!」を唱える。神ではなく、丘の上に立つ理性を表象する少女を愛する。確かに「神は死んだ」のである。



 それによって、我々は目的手段でしか話すことが出来なくなった。真理ではなく、目的を。何が真理かではなく、何が欲されているのかということが求められるようになった。孤立化と組織化は現代の社会を作り上げる。一方ではますます社会は大きな権力によって動かされ、大衆はそれに従う。もう一方では、個人でいることの孤独さを深層の心理で感じている。我々は欲するものは欲せば手に入れられるが、消費行動には何か真なるものはないのだ。孤独感を感じずにいるのは、「真理」が語られていないからである。我々は我々が「神を殺した」と思っているが、世界そのものは我々が「神に見放された」と考えている。

コメント

返信ありがとうございます

 かなり深い問題につきあたってきましたが、私はquatschさんの考えに同意します。つまり、偶然性が哲学者によって(外的に)定義づけられるということ、それゆえに偶然とは人間の内的な経験であり、個人が「そのとき」「ハッ!」としたことなのだということです。

 ただしその瞬間の偶然が何ヶ月、何年、何十年たったときに、経験として呼び出されたときに、はたしてそのときと同じような「ハッ!」というような感情は出てくるかどうか。ほとんどの場合、省みる行為によって、だいたいの偶然は「偶然」であることを奪われると思いますね。つまり、なんらかの合理化(正当化)、理屈付け、意味づけ、因果関係の解明などなど、多様なレヴェルに分かれておりますが、結局「偶然」と言うものはその瞬間と、刹那の余韻の時間だけで感じられるだけで、それが次の場面では、何ら「偶然」でないものに変化している可能性があるわけです。

 ハイデッガーは「未来への投企(project)」という言葉を用いますが、偶然性もこの未来への投企に含まれているのではないでしょうか。つまり、偶然は過去からの内的展開として現在に現象として表れ体験される。その体験は確かな将来(未来)への投企なのである、そういわなければならないのは、偶然の経験が決して現在の一点から次のフレームにその偶然である体験の持続的な展開が望めないからであります。つまり偶然の体験は次の何かの体験、経験、行為、意志への移行の過程の一つなのであって、それ以上に意味を含むものではないし、単なる「ハッ!」とするだけの単純な感情の驚きではないと思います。


 最後に、世界平和のようなすべての国家が団結することは可能であるのか、ということでありますが、今までの世界史を見てきても不可能であることが容易に理解されると思います。これについては無数の思想家が無数の考えを発表しているので、すべてを理解することは不可能に近いと思いますが。現代の社会学者ではユルゲン・ハーバマスは有名ですね。そろそろ「公共性の構造転換」は自分で読みたいと考えております。

 お話の中で、近代化(殊に経済一元論化)は秩序を喪失させたということがありましたが、経済ですべてを語ると言うことは、全く原始人がやったような獲物の取り合いと何ら違うことはないということだと私は考えます。つまり、市場経済とは、確かに市場の中での取引が合理的であることは理解できるのですが、ひとたび視野を広げて、資源、労働力、流通などの外部の要因を包括してしまうと、一気に非合理的な事実が浮かび上がるでしょう。安い労働賃金から資源の奪い合いなどなど、市場経済という解放的では在るがそこに参戦できる人は限られてくると言うシステム内では、どうしても支障がでてくるわけです。それにもかかわらず、そのシステムを否定できないのは、平等と自由を謳う民主主義国家にとっては都合がいいし、合目的でもあるからです。そして絶えず国民は無知にも不満を垂れ流しにしつつ、差別だの参画社会だの、侵害だの訴えてやるだの自分の力では何も出来ない、ただ法律に頼って相手を憎むことしかできないようになってしまいました。

 経済界が排したいものは、すべてゲマインシャフト(伝統社会)の構成要素です。宗教とかそうですよね。もちろんカルトでは論外ですが。(逆に言えば、宗教のおかげで今の経済一元論な社会が成立したということも考えられるわけです)

 長話をしてしまいましたが、今後とも刺激的なコメントをいただけますようよろしくお願いします。

はじめまして2

>「現在に起こる偶然(運命)は過去の経験の内的な展開を通して、必然的な到着点として現れているのだというのです。」

ベルクソンもそうだと思いますが、彼らなら、時間から「運命」と
わたしが呼んだものを捉えるのですね。

ただ、ハイデガーもそうですが、例えば運命なら運命で、
語り口がどうしても外的(哲学者の視点)ではないですか?
いや、単純な疑問でしてそれが即ちいいとか悪いとか
ではないですし、定義とは普通の場合はこういう形だと思います。

ただ、観察されている主体にとってなかなか困るのは、
何かの自分の経験の進行があったとして、
最終的に、「ああ、これは運命だ…!」と叫んだとして、
本人にとってはその一瞬間まで自分の中で起こってきたことが
全然つながりのないことのように感じる、ということだと思います。
言い換えると、生々しくそこに生きている主体本人にとっては
横からハイデガーやベルクソンにささやかれたとしても
身動きがとれない…

そしてつながったとしても、疑りぶかい人は
二人の説明を聞いても、それまでの自分の振る舞いの蓄積が
あまりにも無意識であるので、
はたしてこれは自分にとってそう見えるだけだろうか、
まさか背後になんか居たら(在ったら)どうしよう、
とかオカルトではない意味で考えたりします。

わたしは年齢上マルクスの時代的洗礼は全く受けていませんが、
目的論自体は上段のような意味で気になります。

ずっと前に、「複雑系」についてなんかの事典をひいたときに
「これ(複雑系の文脈上で語られるカオス)が過去に指摘された
スミスの「神の見えざる手」や、ヘーゲルの「理性の狡知」のような
ものではない、とは言い切れない」とか書いてあって超驚きました。

偶然性の意味づけとしての運命と
経験の蓄積の必然的結果としての偶然-運命、ですね。
記事と話が逸れて申し訳ありません。

あ、しかし近代末期の人間ってもはや団結することって
可能なんでしょうか。わたしはけっこう懐疑的です。
Z.バウマンという社会学者が、近代化が進みすぎた結果
我々はもはや秩序を失った、と言っていました。
環境問題にしても、あれこれしているうちに地球ごと滅亡しそう…
卑近な例ではわたしの近くのアルバイトの子たちは、みな自分の
利害で頭が一杯。ボスの策略wに気づくほど頭良くないです。

すみません。話がそれました<阿呆
ご面倒でしたらスルーしてください。

コメント感謝+α

quatsch さん>
 コメントありがとうございます。
 コメントの中に
引用開始
神と言わなくても意外と「わたしはここへ来たのは運命だ…」
とかいって<もうなんというか、理屈で説明できぬ何かに面したときの例…。
引用終了

 とありましたが、このことについて興味深い文献があります。木田元教授の『偶然性と運命』なのですが、新書で読みやすいと思います。

 例えば、理屈抜きの偶然である「運命」的なものをベルクソンでは「回顧的錯覚」と呼び、単に現在の或る出来事による過去への意味づけであると説明されてあります。『笑い』以外ベルクソンの著作は読んだことがないので、これ以上説明することはできませんが、木田教授の説明でいきますと、ベルクソンにおける「偶然」なる出来事とは、現在から過去へ向かい、過去の違う出来事を現在の視点から意味づけるということでしょうか。

 それに対して、本書は別の思想家、ハイデッガーの考えもベルクソンのものとの比較として説明されてあります。ハイデッガーは『存在と時間』で有名でありますが、『現象学の根本問題』という著作を本書は説明の題材として取り上げています。それによりますと、ハイデッガーは過去から現在に向かっており、過去から現在、そして「未来」に対して意味づけを進めていると考えられています。つまり現在に起こる偶然(運命)は過去の経験の内的な展開を通して、必然的な到着点として現れているのだというのです。

 今比較しましたベルクソンとハイデッガーの思想は、どちらが正解かというようなものではなく、むしろ両者の立場がどのような観点に立って思想を展開しているのかを理解すべきであります。なので、今回私が本節で書きましたのは、近現代人が自己に対して目的をもち、それを外的に達成しなければならないと言うことと、神によるマナ的な内的な合理性は失われてしまったということであります。ですので、私は何も古代人は合目的に生きていなかったのだとは申しません。ただ伝統社会(ゲマインシャフト)では、合目的が非常に共同体に向かって合理的であったということは間違いないと思います。(実証せよと言われても、二千年以上まえのことですから、実施調査は出来ませんつД`) ただギリシャ哲学の著作を読んだりすればあるていど思弁でも権威づけられたものが得られるかと思います)

 ご参考になればと思いますが、何かコメントがありましたら、よろしくお願いします。

はじめまして。

はじめまして。
確かに人間が人間の世界しか扱え(わ)なくなるのは
なんとなくもの寂しいですよね。

でも神と言わなくても意外と「わたしはここへ来たのは運命だ…」
とかいって
<もうなんというか、理屈で説明できぬ何かに面したときの例…。
「なんかのせい」、にしてるときはありそう…

合目的性、というのはどこかのレベルではやはり否定しきれぬ
のでしょうか…
でもちゃんと証明するのは今の時代難しそうだと思いました。
ぐええ

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