第3章 (7)そして我々は見放された

 正義とは不正を加えるもので、悪は不正を受けるということである。このことは前述のとおりで、ソフィスト派にとっての正議論である。不正が我々の関係をあるときは強化し、またあるときは破壊することは歴史を見れば容易に理解できることであろう。歴史とは、「何があったのか」「我々が何を(不正)をしてきたのか」ということを省みる行為である。我々は2つの歴史をもっている。1つは風土性にもとづく歴史であり、2つは客観性にもとづく歴史である。前者は特に和辻哲郎の『風土』や『倫理学』を参照されたい。後者は、現在の歴史観のあり方そのものである。よって、客観的な歴史は無数の主観的な(個人的な)歴史観との狭間でその純然たる<客観性>は見事に解体され、当に合理的な、というよりも「合目的な」歴史観が不安定にも完成されるのである。そうなれば風土性の歴史とどう違うのかという疑問もでてくると思う。



 風土性とはその気候、社会的環境によって地方別に作り上げられる。人間性も個別的に、しかしそれを包む共同体の中で育まれる。歴史は自ずからその内で綴られてゆく。歴史は個人に目を向けて描かれるのではなく、人間と自然との特別な関わりあいや、人間と神との対話や体面などの体験を題材にされなければならない。人々は自然に対して尊厳な態度をとり、自然は人々を恵む存在としてたち現れる。歴史はマナを含んでいる。神話化されるときもある。英雄化することもある。現代の我々はそれに対して強い疑問をもつかもしれない。もしくはあまりに非合理的であり、非現実的であるから、嘲笑するかもしれない。しかしながらそれらは彼らの風土のなかでは、立派な真理である。それゆえ我々はそれを否定してはならない。なぜなら否定した瞬間に共同体的な歴史を意味のないものへ陥れることになるから。



 対して、客観性にもとづく歴史とは、調査され、発掘され、復元されるためだけに再び綴るための歴史である。それゆえ、その歴史は些か我々の現代人としての視点を免れ得ない。歴史は現代という目から分離されずに、たえず現代の社会的な精神を反映されなければならない。その精神は集団意志ではなく、ときには個別の意志をまとめて一般意志にさせるものもあり、それが必当然的なものとなったとき、(悪しき)イデオロギーとなって我々の意志をコントロールする。このように客観的な歴史はその完全性から何にも否定されずにますます硬直する。ついには、否定するものを駆逐することになってしまうのである。それは風土性の歴史にみられる破門や追放などではなく、法によって行われる処罰である。社会的非難から、懲役まで含んでいる。そして我々現代人はこの(否定できないという)客観的な歴史観をたえず持たざるをえない。



 しかし、両者に共通するのは、両者が非常にソフィスト派の正議論に基づいているということである。つまり、それらは常に正義の歴史である。正義があるから非−正義、つまり悪も描かれる。歴史とはたえず争いのなかに生まれ、そして受け継がれるものであるが、そうなるとすれば我々は未来へ向けて、「いつ争いは終結するのか」という問いかけが生まれるのではないか。ところが我々は「争いは終わらない」ことを本心の中で静かに感じているのである。



 それは我々の社会原理にみることができる。つまり合理性、合目的性である。両者には大きな違いがあるが、本節ではその違いの説明は省かせていただく。合理性とは理性による人間の行動の支配である。常に理にかなうように我々は行動すると考える。その合理性を保つには、何か人間をコントロールするような規範が必要である。「契約」「法律」がそれである。契約によって我々は不正に対する損害の量を減らすことが出来るであろうし、法律によって新たな悪は生じないことになる。要は人間が人間だけで生きるとき、社会はそれ自体で存立できないのだ、それを可能にするための「能力」がなかったのである。



 近代はまさしく「能力開発」の時代であり、人間だけで生きるための可能性の探求であった。言い換えれば「神を殺す」ための方法論の模索であったのである。啓蒙は我々を覚醒させ、神のつながりから解放されたことは我々の行動範囲を広げ、自己目的の達成を認められるようになった。人々は教会ではなく、理性の丘に集い、「理性万歳!」を唱える。神ではなく、丘の上に立つ理性を表象する少女を愛する。確かに「神は死んだ」のである。



 それによって、我々は目的手段でしか話すことが出来なくなった。真理ではなく、目的を。何が真理かではなく、何が欲されているのかということが求められるようになった。孤立化と組織化は現代の社会を作り上げる。一方ではますます社会は大きな権力によって動かされ、大衆はそれに従う。もう一方では、個人でいることの孤独さを深層の心理で感じている。我々は欲するものは欲せば手に入れられるが、消費行動には何か真なるものはないのだ。孤独感を感じずにいるのは、「真理」が語られていないからである。我々は我々が「神を殺した」と思っているが、世界そのものは我々が「神に見放された」と考えている。

第3章 (6)生暖かい<絶望>

 絶望できるのなら、まだ気楽なほうである。絶望することさえできないほど絶望しているのならば、それは生と死のどちらかの彼岸に生きているとしかいえない。つまり、死と生との間を彷徨う個体的な存在者としての自覚である。それゆえ、「私が絶望している」という現代人には、「何に対して、誰のために、絶望しているのか」と問わなければならない。大体は、不合理な社会や差別の社会構造が一般的な(彼ら、彼女らにとっての)回答であると思うが、その絶望はまだ生暖かい。つまり、絶望の本質をついていないのである。


 絶望の本質は、実際社会から孤立し、孤独な個人として感じ取られるものではない。自己外化という言葉が、心理学から社会学まで広く使われているが、実はその自己外化の領域では、生暖かい絶望しか得ることができない。なぜならば社会のもつ社会性自体が人間個人を個人としてあらしめる条件であり、それゆえ個人が孤立化する性質を予め告げているからである。それにもかかわらず、我々がこの社会を考え、発展させようと試みるのは、進歩という「新しさ」を絶えず求めようとする意志に関わっているためである。この「新しさ」とは、世界からも離れると言うことであり、この先行する規定は、共同性という人間それ自体が本質的に求めるものを彼らの意志の中で消滅させることを示している。つまり、我々は先天的に社会的存在者であるということは、人と人との間に生きることを自明のこととし、孤立するか、組織的存在者として制限されるかのどちらかしか選択肢が用意されていないのである。だから、我々はそれぞれの利権を求め、それを進歩としながらも、どこか自分が自分でないような気がする。そしてそれに気がついたとき、まさしく絶望を感じるのである。だが、それはあまりに生暖かい。絶望者は、<救済>されることを、絶望しつつも望んでおり、それが実現されることも心のどこかで感じているのである。


 つまり、心のセーフティ・ネットの存在は、絶望を絶望として定めない。セーフティ・ネットは人間個人の<基本的人権>を守ってくれるから。すると、絶望者は、自分を喪失し、社会の中に私的の<場>がないにもかかわらず、どこか自分が助かり、勝者であることを認めているのである。ところで、心のセーフティ・ネットとは、我々が知覚し得るものではない。再度申し上げるが、それは法律なのである。法律は、憲法と共に、人間個人が社会的存在者であるという事実を肯定的に保護し、いかなる否定的な語りにも、それを受け付けないという権利で対抗しようとする。つまり、弱者保護を目的とする近代以降の法律は、それぞれの利益を最大化にしつつ、零れ落ちる弱者を再び社会に戻そうとする働きをもつ。こうした働きは、近代以降に特有である。なぜならマルクスが考えたように、この社会は<労働>によって成立しているのであり、少しも労働者を労働から解放させないようにしなければならないからである。心のセーフティ・ネットは、個人を救済するが、それはその個人のためではなく、全体の<労働>という絶えなきエネルギーの持続のためである。


 このことから、社会的存在者は、その中で孤立することは認められているが、その社会から解放されることは禁じている。そもそも出口を作っていない。この閉鎖的な性質は、オート・ポイエーシスのものとは違う。地平なき世界、それが社会の実体である。どこまで言っても<労働>の世界であり、人々の監視の世界である。このような中で、自己利益の最大化というプロジェクトに参加できないような人間、つまり自分が正常な人間であり、社会の中の市民としか認識できない人間は、現実の葛藤の間で、自分が生きる意志を弱めることとなる。しかし、死ぬことは許されていないし、彼ら自身死ぬとは考えていない。自分の関心は利益よりも消費に向ければ、飽くなき消費の生活を送ることができるし、自分の欲望を満たす<モノ>はどこにでもある。しかし、本当に満足させてもらえる<モノ>はそこにはない。転じて、個人は絶望状態に陥る。この状態こそが、<生暖かい絶望>である。貧困はこの社会にはもはや存在しない。貧困を妨げるように、職はどこにでもある。生きるための賃金は用意されているのだ。しかし、同じくして個人を満たすような職業は存在しない。手に届かない場合もあるだろう。<生暖かい絶望>は、人間を生き地獄の中に閉じこめるものである。それは永遠の監獄でありながら、自分の手中に鍵をもっているのである。法律は鍵を持っていないのだ。


 心のセーフティ・ネットは、結局監視する者として、<生暖かい絶望>者に対して、目を向けている。そして、「こんなに支援しようとしているのに、あなたはどうして社会人としての義務を全うしようとしないのですか」と語りかけてくるだろう。それに対して、彼らのような絶望者は、一時は労働の社会に戻ろうとするが、すぐに自分の世界観に戻ろうとする。つまり、消費社会としての享楽の世界にしがみつこうとする。このような苦と楽という二方向の抑圧は、ますます絶望者を無気力にさせ、絶望することを認識させる。この社会は、運命と啓示を嫌い、ただサイクルとしての労働の生活によって成立している。それゆえ、生きるか死ぬかの瀬戸際を不要だとし、あなたなりに生きるようにしなさいと優しくささやいてくれるのである。<血>を流すということは言語道断だ。癒されなければならない、実際その癒しとは<生暖かい絶望>の別の顔である。

第3章 (5)善と悪の諸説

 中世と近代との境界線をどこに引くかという問題は、それ自体で大きな議論を呼ぶことになりそうである。ただ社会学者テンニエスが社会形態を伝統社会としてのゲマインシャフトと利益社会のゲゼルシャフトとに呼び分けたこと、また理性主義が活発にみられるのがフランス革命の前後であることを考えるのならば、大体はその境というものが顕著になるように思われる。


 ただアドルノやホルクハイマーらの共著『啓蒙の弁証法』で、こうした時代区分がさらにイデオロギー化し、歴史の変遷や近代の闇の部分が現れる原因となった事項が中世以前の伝統社会から由来するのだ、ということを学んだ。それゆえ、近代以前、近代以降で歴史を分けることは、比較思想として用いることに止めようと思う。


 本節では、人と人との関係がどのような形で形成されるかをみる。一般的には、人と人との間の関係を共同体の構成員として考え、比較的どの時代の評価も肯定的である。近代以降の我々も、利益というゲゼルシャフト的なもので結び付けられ、契約を結んで人間関係を継続しているのである。否定的な関係、すなわち「よい」関係ではなく、「悪」の関係に焦点を当ててみると違うアスペクトが浮かび上がるのではないだろうか。


 これは、人間が生善であるような考えを否定することであり、人間が神の化身でありながら、絶対善でありえないことを認めるものである。例としてソフィスト派の正義についての考え方を紹介したい。ソフィスト派は、「正」を「不正」から由来させ、次のように定義づける。

善は不正を加える
悪は不正を受け取る



 ここで、善は「得」を意味したり、「正義」をも意味する。つまり、個々の善というものは、個々についてそうである限り、他人には「不正」を加えているものなのである。つまり、善でない人は、自ら不正を加える能力がなく、そうする状況に置かれていないので、常時「悪」の立場を享受しなければならない。善とは不正を加えるものとして捉えるとき、全体としての共同体は相対的に入手する得よりも、損害の方が多くなってしまう。


 法律とはこうした不具合〔不合理性〕を正すものであり、ある意味古代ポリスの時代から発生してきたものだと考えられる。それゆえ、この法律は近代以前から存在しており、近代という時代の節目において、意味が完全に変わってしまったと言ってよいと思う。というのは、法律とは合理性(ラショナル)そのものであり、善から生じる損害を避けるための人為的な道具だからである。人間関係が良いということは、その間に「不正」というものが生じない状況である。それゆえ、正義というのも、英雄的な意味を失い、ただ最善と最悪の中間点を取るようになったのである。こうしてみると、なぜゲゼルシャフトという社会形態が生まれたのかが理解できるのではないだろうか。というのも、契約によってゲゼルシャフトは成立するのだが、利益の最大保存を目的とすると、たえず対立するよりも利益を干渉せずに、利益はその組織において保存し、利権は共有するという体系をもつからである。

 人間は社会的存在者であるということは、第1章で述べたし、多くの社会学者が言及していることだと思う。つまり、人間が社会を作ると同時に、社会が人間を作るということなのである。ところが、こうした社会即個人という構図は、法律によって阻害される。法律は個人と個人との間の不正を正すことしかできないため、これが社会という(集合意志が意識されない現代においてそうであるように)抽象的で実感のないものに対しての不正は正されることはない。それは先んじて「隠蔽」されることが可能だからである。現代ではそれを見逃すまいと媒介としてのメディアが存在しているが、スクープしかできないため、それを我々の集合意志として形成を促すことができない。スクープとはスコップで掘り起こす意味をもつだけであり、それを、我々の集合意志に共鳴させることができない。むしろメディアの側からイデオロギー発信の役割を担おうとする傾向が日本、そしてアメリカに多く見られる。利益代表者的な自覚は、メディアをメディアたらしめないことに他ならない。つまり、社会と個人を媒介するはずのメディアは、社会のテーマにおいての個と個の利益関係を補助、伝達、公表するだけの受動的な位置にしか存在していない。それゆえ何が善で何が悪かということを現代人は自覚的に考えることを、あらゆる組織によって阻害されている。教育でもそうであるし、町内でもそうである。


 これが正しいのだ、という絶対主義を近代は相対主義によって克服してきた。つまり、「これ」でもないし、「あれ」でもない。弁証法的な手法はただ用いられ方によっては、粗悪なものになってしまう。つまり、これが正しくないのだから、どれでも(私が欲するものが)正しいのである、となっては困るのだ。現代人は見事にこの手法を無意識的に取り入れているといえよう。それは、個性を大事にするという一連の社会の動きにみられるように、「基本的人権」を強調するところにみられる。近代市民社会以降の考え方しか理解しない人間は、こうした本源的に具わっている「基本的人権」を曲解し、次のようなテーゼを考える。「個人はあらゆる対象から否定されることはない」というのが、私が彼らの主張をパラフレーズしたものである。つまり、自我はそれ自体が肯定されるのだ、と共振してしまうのである。自己主張の時代と私は現代を見るのだが、これは上で見たソフィスト派の善の考え方を大きく曲解している。もはや不正による共同体における個人間の損害を回避し、正そうという意向は全く感じられず、むしろ「不正」を相手に押し付け、自らの正当性を主張するのが、近代以降じわじわと現れて来た歴史の結末であるように考える。


 しかし、こうした狂気の時代に一つだけ現代人が怖れることがある。それは「血」という絶対的な存在についてである。現代人は「血」を怖れる者と、「血」を享楽に現実せしめようとする者とに分かれる、そう最初に述べた。流血すること、すなわち死に直結することについては、その現在進行的な事実には法律や基本的人権は無力である。それゆえ現代人はそれを撲滅しようとますます人権運動を強めるのである。「血」を流すことは、自己に対する「不正」の中でも最上位にあたると思う。だから「血」に関して我々現代人は、絶対に流すまいと賢明に現事実を否定しようと試むのである。すると、グローバル社会はますます隠蔽された市場において社会を拡大しようとするし、戦争はますます個人と関係のない高次元で半ば空想めいた話になる。そして「血」を流すことになった、その時点でようやく現代人は自己自身の無力さを説き後悔するのである。


 「血」を流す行為は一つの「善」である(他の例は後日、そして自殺はこれに「善」でない)。むしろ「善」に包まれ、「善」に昇華される。これについては次節で詳しく述べることにする。

第3章 (4)同苦としての<血>の役割

 本章では、リストカットをはじめ、自殺や他殺を対象に、血がどのような運動をしているか、もしくは役割を示現してきたかをみてきた。つまり、現代人の悩みがこれらの<血>に関わる社会的事実であり、ストレス社会という枠組みのなかで現代人はこうした行為に常に直面しているともいえる。リストカットは他者を寄生し、自殺は<同−情>として、血が他者に<情>を投げかけつつ流れ出てゆく。そして他殺は血を強奪する行為である。血を奪うという行為は、アイデンティティを喪失させる行為に他ならない。


 今回のテーマはそうした現代の憂鬱に対して、本来的な<血>が人間の生死とともにどのような役割を示してきたのかをみる。つまり、<同苦>と<血>がどのように相互的なかかわりをもってきたかをみるのである。


 <同苦>はその名の通り、「〜と共に苦しむ」ことである。それはただ同じ場所において同情し合うことではない。現代のソーシャル・コミュニティにおいてこうした状況が見受けられることは少なくない。同じテーマ〔境遇〕に向かった者同士が、対してその苦しむ原因を考えなく、ただ馴れ合いも同然なことをするということは、ただの<気晴らし>でしかなく、出てくる言葉もそれぞれの体験を話すことしかできない。<思いなし(opnion)>がそれである。苦しむことになった原因があたかも偶然的に起こり、私たちだけが苦しむことになっている。そういう風な思い込みは、結局その苦しみを<超克>することも、<共に解決する>こともできないであろう。ただカウンセリングすることになって、<気晴らし>ができても、根本的な解決にはならない。


 <同苦>は、宗教的な側面をもつ。隣人愛にみられるキリスト教の実践的な思想は、苦難の意味も含めている。「汝、敵を愛せ」だとか一見不合理なことも、宗教は個人の<私>に迫ってくる。その問いかけこそが、<同苦>の思想を共有させ、我々の源へ〔現存在としての我々〕に語りかけてくるのである。それは、問いであり、抑圧的であるが、そうした<考える場>の提供は、宗教のほかにありえない。ただ肉体的な苦痛ではなく、精神に語りかける苦痛である。血は肉体的な現われであるが、ゲマインシャフト的な宗教においては、それをも<精神化>させることがある。キリスト教におけるイエスの十字架という絶対精神的な表象は、イエスの個人的ではあるが、共同体全体の肉体を痛めつけられることの苦難をありありと現わして来る。それは、<共に在る者>たちへの語りかけである。イエスが肉体的に血を流し、その血が信者や異教徒たちへ流れ出ることは、彼らの精神を刺激し、再び共同体へ立ち戻るための大切なメッセージを刻むことになる。<同苦>とは特殊な限られた人々のためにあるのではなく、こうした絶対精神的な血の流れ出は、一般の人々にも語りかけるのである。<血>は個人的な肉体の苦しみを現していても、その向かう先には他者、すなわち<共に在る者たち>の精神がある。<同苦>とはこういった共同体的な意味合いを含んでいると考えられる。

 現代ではこのような境遇は一切見られない。例えば環境に対する想いや戦争に対する反対の想いは、上述の<同苦>の思想を無視している。というのは、我々が環境を守るというグローバルな問題を考えるさいにも、メディアを通してしか、その悲惨さを感じることはできない。そして、解決方法は「身近なことからはじめよう!」というなんとも楽観的なスローガンによって生まれてくる。こうした取り組みは、必ず失敗する。そしていずれは、環境破壊とはそれほど我々に深刻な問題となっていないと嘘をつくことで安心しようとする。第一にそれは、環境問題などの世界的な問題群は、我々に直接問われることはなく、すべて産業構造のシステムを通してである。それは、環境問題の深刻さを伝達するも、「広告」によって消費を促進という企業にとっての目的に摩り替えることが必然に起こるためである。環境を守るには、という問いかけも全て「エコな暮らし」「持続可能な社会」「地球に負担をかけない暮らし」という消極的な用語に摩り替えられてしまう。そこには<同苦>といった共同体的な思想はない。


 そもそも<同苦>とは、肉体的な血の流れ出があってこそ、精神的な苦しみや語りかけがなされるものである。それゆえ、日本の切腹〔自決〕というのも、実際的には共同体的な目的のためにあり、<語り継がれ>によって<同苦>の思想へと移り変わるのである。実際、肉体的な血の流れ出の主体は英雄化される。それは神話化であり、なにか超人間的な意味合いをもたされることになる。このことは、歴史の歪曲だという意味合いをもつのではない。英雄化としての神話形成は本来的にも歴史性をもっている。また、他者へと流れる血は、歴史性をともなって、時間の内に永遠なる特性をもち、現存在の我々の精神を揺るがし、考えさせる。それは、驚き〔thaumazein〕とともに、苦難を強いる。それを軽視し、否定するのは紛れもなく、近代以降の我々人間である。ただ客観性を重視し得たものは、金とモノと享楽的な生活である。そして失ったものはといえば、共同体性そのものなのである。

第3章 (3)流された血の「行方」と現代の諸問題

 どのようなケースにおいても、血を流すという行為は、他者に向かって流れ行く。なぜなら血を流す主体は即自存在の特徴を犠牲にして、様々な他者へその失われる即自性と、その個人的な本質というものをも流すのだから。

 自殺とは、「私」という生の意志を外部に捧げる行為である。そして、その行為は流れる血とともに「情」を他者に流す。そうする ことによって、他者は否が応でも自殺した主体にたいして、<同-情>することになるのである。この一方的な意志の伝達は、他者を困惑させる。自殺者の意志はその時点で消滅しているにもかかわらず、<同-情>によって、その<情>は他者の心の中で維持され続ける。そして、そのやり場のない<情>は他者の意志にも影響を与え、生の意志の生き場を変質させることになるのである。

 殺人によって殺害された主体は、生の意志を完全に略奪され、支配されることになる。即時性は消滅し、その血は自殺の場合と違い、生き場を失う。殺された主体の意志は、略奪者が意識していようがなかろうか奪われてしまっているため、それ以上<外へ>流れ出ることができない。他者は主体の<不在>を感じ取り、その<不在>であるということから一種の<情>を作り上げる。復讐や生の意志の変質はその他者ごとに違うのだが、この現代社会において、共同体的な、もしくは血縁的な<許し>はなされることが決してない。なぜなら現代社会は経済と法の支配する国家であり、法によって裁かれ、経済的な救済を被害者に関係する他者に与えるだけにとどまるのだから。法は<情>を汲み取らない。経済は<情>を貨幣に変換する。意志は理性(ratio)によって操作され、結局不満が残り、意志の略奪者は<許し>を得ないまま社会に解放される。

 現代社会とは、弱者によって成立している。それゆえに、経済的な豊かさを個人において得ようとする人間は弱者としてではなく、合理的な作法によって、ついには「強者」としての虚像を作り上げる。その技術(テクネー)は、誰にでもできるものでもなく、謂わば共同体の網を潜り抜け、<共に在る>ことを避けて通って来た人間にしか完成されることのないものである。近代の完成とはまさに、弱者のルサンチマン的性格が流出したことではなく、むしろ強者の表象と技術を会得した弱者による<線引き>、そして他者の<ルサンチマン化>である。それゆえ、この社会は法によって平等社会を謳うが、経済的な開きはますます大きくなる一方で、伝統的な<許し>の作法が消滅し、強者が弱者を<納得させる>ことによって、諸問題は解決されたことにされてしまうようになったのである。日本は戦後のある時期まではこの問題を深刻化させることなく、つまり伝統的な(ゲマインシャフト的な)要素を完全に喪失することなく維持されてきたのだが、今になっては強者の怠慢により、弱者としての国民は不満が頂点に到達しそうである。にもかかわらず、その怒りと不満が強者に向けられないのは、完全にシステムに屈服している図式が我々に示されているからである。

第3章 (2)自殺か殺人か

 人間は結局のところ「二者択一」の内でしか自己決定ができないと私は思う。そして、生きるか死ぬか、というような問題も人間の不可避的な問題である。生きるということは、意志の問題であり、行為そのものが意志に基づかなければならない。
 意志の絶対的な支配力、ということが近代以降のヨーロッパ、そして近現代の日本などにも影響を与えるようになった。世界大戦からホロコースト、植民地支配から自由資本主義の支配まで、すべてにおいて頼るのは金と支配しようとする意志であったに違いない。揺ぎ無い意志こそが強者の必然の力であるということが、近代以降の社会形成を促した。

 我々は自己を反省することによって、過去に出入り、そして未来にも時空間に沿って流れ生きる。実存としての個人は、物として、「人」という文字としてでは存立できない。それゆえ、人間という存在者の存在は結局形而上的にしか把握できない部分が明らかになる。

 人間は重層価値的な存在者である。動物はそうではない。動物は生態系という一つのシステム内の存在者である。人間は生態系以上にシステムをもっている。個人のレベルで、人間(自我)はたえず悩んでいる。それが生か死かの問題である。死ぬことすらも選択肢に含められるのは人間だけであり、どんなに蔑まれても生きようと意志できるのも人間だけである。

 ただ先述のとおりアイデンティティは、ただ孤立する一人の個人によってなされることではないのだから、なんらかの<他者性>や<歴史性>などの特性とともに確立されなければならない。自傷行為とは、自己否定的なナルシシズムである。このナルシシズムとは、自己愛的な面よりも、<他者性>の欠如ゆえに人間感覚が麻痺しているという意味合いをよりよく示している。共通感覚の麻痺によって、人間は私個人で生きていけるのだと考える。それどころか、この世界は私だけしか存在し得ないということさえ考えてしまうだろう。そうなってしまうのは、やはり社会的な抑圧を誰よりも受け、自分の<場>をもてなくなってしまったためであるし、それが自己の孤立化にも繋がってくるのである。

 自傷行為は自己の存在を放棄することであると述べたが、実際人を殺めるということも自己の存在の放棄と同じことであるとも言いたい。近頃の凶悪犯罪というのは、生の否定の対象が「我」か「お前」かという二者択一によるものと考えなければならない。これは、殺人を犯した人間が自分をしか傷つけられない人間よりも優越であるというものではなく、裏表の関係にあるということである。

 ということは、殺人(多くは強姦から集団暴行など、そして腹癒せの犯行まで)は、自己のやり場を失い、さらに社会的抑圧を感じている者による犯行であると言える。それは、近代以前の日本人にみられた、人情をともなった犯行、そして生きるためだけの強盗、さらには弱きものを助けるための復讐などとは同じように考えられてはいけない。なぜならそれらの犯行は「生」か「死」かという問いを現前に突きつけられた人間がそれに答えようという態度をもったときに始めて犯行が可能だからである。

 近年増え続けている凶悪犯罪の場合、「生」か「死」かという問いがあっても、答える必要はない。また答えなくていいと犯罪者は考えるであろう。なぜなら彼らには弁護士という最大の理解者がおり、法律によって彼の「生」は絶対的に保障されるのであるから。現代社会の大きな矛盾となるのは、一方で「生」の大切さと尊厳を説きつつも、その一方でそれを犯した「生」もまた保障されるということである。ストレスに悩まされる現代人にとっては、拷問であり、ゆえにそれを回避できてしまうと、このような凶悪犯罪が生れてしまう。「生」の放棄を希望する人間が多くいるのに、その大半は現前される「死」をまともに享受しようとする人間がいない。ただ「許される」という人為的で病的な「救済」によって、どのような犯罪も法治国家では救われるのである。「生死」に向き合うことを恐れ、また向き合わずに他人の「生」を犯し、もしくは自己の「生」を放棄するような状況では、犯罪は少なくならないだろうし、これからさらに凶悪化していくであろう。近代的救済措置があるがゆえに、我々の共同的な「安全」は脅かされているのである。

第3章 (1)リストカットは「死に至る病」である

 リストカットをすることが自分の存在を示すためだ、ということを聞いたことがある。つまり、リストカットという行為が私と「他者」との関係性における「自己」を認識しうるものにするということか。しかし、「血」を流すということの意味は、「私が生きていた」ということを思い浮かべさせなければならない。「血」とはそれ自体ではどうすることのできない存在なのだから、やはり私が存在し得た刹那が私の「生」の証明である。いわば「血」が流れるということは、私の本質が流れ出て廃棄されているということと相違ない。それゆえ、リストカットは「生」の放棄であって、アイデンティティの確立と混同してはならない。

 生きるためにリストカットをするという人間は、そのまま自分の流れる血をみつめながら、なかば虚無感を感じながら生血の喪失を実感するであろう。その虚無感は、実行者に「生血」は流れるのに、「私」が不在するのを目下することを認識させる。「自己」を生成させようとリストカットをしたのに、結局は「自己」を流してしまって「生」そのものに存在価値の無意味性が明らかになるのである。労働と同じで、リストカットやそのほかの自傷行為は、「再生産」という果てのないサイクルである。そのサイクルから一度出てしまえば、万事解決するのにそれができない、これこそ現代の「死に至る病」の一つであろうか。

 リストカットおよび自傷行為は他者が必要である。しかし、これらの行為は全く共同性を欠いていると言わざるを得ない。共同性とは、人と「共に」あるということと、人と人との「間」にあるということである。リストカットは自傷者が自分を傷つけられることを「見られる」ということを望んでいる。もしくは、自己を外化させて、自分が傷ついている自分を「私」が見ようとする。それぞれ他者は観客であり、自傷者は「感想(オピニオン)」を期待している。彼らは情を自らの行為によって得ようとする。同情を得るか、「馬鹿!」と言われて、止められるか、だいたいこの2つが可能性としてあるだろう。どちらも「情」がこもっている。しかしその期待される情は、その場でしか現れないゆえ、その場面が移り変われば、情は虚無へと姿を変える。そうして不安だけが「私」に残る。

 自傷することは、私の存在を示すどころではない。私を捧げている。無償で。なかば強制に。なぜなら自傷行為は「私」の剥奪であり、それこそがプライベートであるから。プライベートと言うのは、「私だけの」の意味ではなくて、奪われるという意味である。自傷行為は、「私」だけでは成立しない。結局他者か、自己を外化させる他の「私」を必要とする。「私」の正当性を相手に奪わせることによって自傷行為が正当化されるのである。自傷行為は寄生虫的な行為である。それゆえこのような振る舞いは、公共性を失わせることになる。ますます社会から疎遠になってゆく、よほど献身的な他者がいなければ立ち戻ることはできないであろう。

 自傷行為は、日本の切腹や自刃、そして自決のどれとも関わりがない。日本の習慣に自傷は含まれない。血を流す自傷行為は、自己証明ではなく、「そうなってしまった可哀想な私」を消そうとする行為である。それ以上の価値をもっていない。そんな「私」を他者に無理やり奪わせておいて、「私」は生きようとする。やはり、自傷行為は現代の死に至る病である。