第3章 (7)そして我々は見放された

 正義とは不正を加えるもので、悪は不正を受けるということである。このことは前述のとおりで、ソフィスト派にとっての正議論である。不正が我々の関係をあるときは強化し、またあるときは破壊することは歴史を見れば容易に理解できることであろう。歴史とは、「何があったのか」「我々が何を(不正)をしてきたのか」ということを省みる行為である。我々は2つの歴史をもっている。1つは風土性にもとづく歴史であり、2つは客観性にもとづく歴史である。前者は特に和辻哲郎の『風土』や『倫理学』を参照されたい。後者は、現在の歴史観のあり方そのものである。よって、客観的な歴史は無数の主観的な(個人的な)歴史観との狭間でその純然たる<客観性>は見事に解体され、当に合理的な、というよりも「合目的な」歴史観が不安定にも完成されるのである。そうなれば風土性の歴史とどう違うのかという疑問もでてくると思う。



 風土性とはその気候、社会的環境によって地方別に作り上げられる。人間性も個別的に、しかしそれを包む共同体の中で育まれる。歴史は自ずからその内で綴られてゆく。歴史は個人に目を向けて描かれるのではなく、人間と自然との特別な関わりあいや、人間と神との対話や体面などの体験を題材にされなければならない。人々は自然に対して尊厳な態度をとり、自然は人々を恵む存在としてたち現れる。歴史はマナを含んでいる。神話化されるときもある。英雄化することもある。現代の我々はそれに対して強い疑問をもつかもしれない。もしくはあまりに非合理的であり、非現実的であるから、嘲笑するかもしれない。しかしながらそれらは彼らの風土のなかでは、立派な真理である。それゆえ我々はそれを否定してはならない。なぜなら否定した瞬間に共同体的な歴史を意味のないものへ陥れることになるから。



 対して、客観性にもとづく歴史とは、調査され、発掘され、復元されるためだけに再び綴るための歴史である。それゆえ、その歴史は些か我々の現代人としての視点を免れ得ない。歴史は現代という目から分離されずに、たえず現代の社会的な精神を反映されなければならない。その精神は集団意志ではなく、ときには個別の意志をまとめて一般意志にさせるものもあり、それが必当然的なものとなったとき、(悪しき)イデオロギーとなって我々の意志をコントロールする。このように客観的な歴史はその完全性から何にも否定されずにますます硬直する。ついには、否定するものを駆逐することになってしまうのである。それは風土性の歴史にみられる破門や追放などではなく、法によって行われる処罰である。社会的非難から、懲役まで含んでいる。そして我々現代人はこの(否定できないという)客観的な歴史観をたえず持たざるをえない。



 しかし、両者に共通するのは、両者が非常にソフィスト派の正議論に基づいているということである。つまり、それらは常に正義の歴史である。正義があるから非−正義、つまり悪も描かれる。歴史とはたえず争いのなかに生まれ、そして受け継がれるものであるが、そうなるとすれば我々は未来へ向けて、「いつ争いは終結するのか」という問いかけが生まれるのではないか。ところが我々は「争いは終わらない」ことを本心の中で静かに感じているのである。



 それは我々の社会原理にみることができる。つまり合理性、合目的性である。両者には大きな違いがあるが、本節ではその違いの説明は省かせていただく。合理性とは理性による人間の行動の支配である。常に理にかなうように我々は行動すると考える。その合理性を保つには、何か人間をコントロールするような規範が必要である。「契約」「法律」がそれである。契約によって我々は不正に対する損害の量を減らすことが出来るであろうし、法律によって新たな悪は生じないことになる。要は人間が人間だけで生きるとき、社会はそれ自体で存立できないのだ、それを可能にするための「能力」がなかったのである。



 近代はまさしく「能力開発」の時代であり、人間だけで生きるための可能性の探求であった。言い換えれば「神を殺す」ための方法論の模索であったのである。啓蒙は我々を覚醒させ、神のつながりから解放されたことは我々の行動範囲を広げ、自己目的の達成を認められるようになった。人々は教会ではなく、理性の丘に集い、「理性万歳!」を唱える。神ではなく、丘の上に立つ理性を表象する少女を愛する。確かに「神は死んだ」のである。



 それによって、我々は目的手段でしか話すことが出来なくなった。真理ではなく、目的を。何が真理かではなく、何が欲されているのかということが求められるようになった。孤立化と組織化は現代の社会を作り上げる。一方ではますます社会は大きな権力によって動かされ、大衆はそれに従う。もう一方では、個人でいることの孤独さを深層の心理で感じている。我々は欲するものは欲せば手に入れられるが、消費行動には何か真なるものはないのだ。孤独感を感じずにいるのは、「真理」が語られていないからである。我々は我々が「神を殺した」と思っているが、世界そのものは我々が「神に見放された」と考えている。

第3章 (6)生暖かい<絶望>

 絶望できるのなら、まだ気楽なほうである。絶望することさえできないほど絶望しているのならば、それは生と死のどちらかの彼岸に生きているとしかいえない。つまり、死と生との間を彷徨う個体的な存在者としての自覚である。それゆえ、「私が絶望している」という現代人には、「何に対して、誰のために、絶望しているのか」と問わなければならない。大体は、不合理な社会や差別の社会構造が一般的な(彼ら、彼女らにとっての)回答であると思うが、その絶望はまだ生暖かい。つまり、絶望の本質をついていないのである。


 絶望の本質は、実際社会から孤立し、孤独な個人として感じ取られるものではない。自己外化という言葉が、心理学から社会学まで広く使われているが、実はその自己外化の領域では、生暖かい絶望しか得ることができない。なぜならば社会のもつ社会性自体が人間個人を個人としてあらしめる条件であり、それゆえ個人が孤立化する性質を予め告げているからである。それにもかかわらず、我々がこの社会を考え、発展させようと試みるのは、進歩という「新しさ」を絶えず求めようとする意志に関わっているためである。この「新しさ」とは、世界からも離れると言うことであり、この先行する規定は、共同性という人間それ自体が本質的に求めるものを彼らの意志の中で消滅させることを示している。つまり、我々は先天的に社会的存在者であるということは、人と人との間に生きることを自明のこととし、孤立するか、組織的存在者として制限されるかのどちらかしか選択肢が用意されていないのである。だから、我々はそれぞれの利権を求め、それを進歩としながらも、どこか自分が自分でないような気がする。そしてそれに気がついたとき、まさしく絶望を感じるのである。だが、それはあまりに生暖かい。絶望者は、<救済>されることを、絶望しつつも望んでおり、それが実現されることも心のどこかで感じているのである。


 つまり、心のセーフティ・ネットの存在は、絶望を絶望として定めない。セーフティ・ネットは人間個人の<基本的人権>を守ってくれるから。すると、絶望者は、自分を喪失し、社会の中に私的の<場>がないにもかかわらず、どこか自分が助かり、勝者であることを認めているのである。ところで、心のセーフティ・ネットとは、我々が知覚し得るものではない。再度申し上げるが、それは法律なのである。法律は、憲法と共に、人間個人が社会的存在者であるという事実を肯定的に保護し、いかなる否定的な語りにも、それを受け付けないという権利で対抗しようとする。つまり、弱者保護を目的とする近代以降の法律は、それぞれの利益を最大化にしつつ、零れ落ちる弱者を再び社会に戻そうとする働きをもつ。こうした働きは、近代以降に特有である。なぜならマルクスが考えたように、この社会は<労働>によって成立しているのであり、少しも労働者を労働から解放させないようにしなければならないからである。心のセーフティ・ネットは、個人を救済するが、それはその個人のためではなく、全体の<労働>という絶えなきエネルギーの持続のためである。


 このことから、社会的存在者は、その中で孤立することは認められているが、その社会から解放されることは禁じている。そもそも出口を作っていない。この閉鎖的な性質は、オート・ポイエーシスのものとは違う。地平なき世界、それが社会の実体である。どこまで言っても<労働>の世界であり、人々の監視の世界である。このような中で、自己利益の最大化というプロジェクトに参加できないような人間、つまり自分が正常な人間であり、社会の中の市民としか認識できない人間は、現実の葛藤の間で、自分が生きる意志を弱めることとなる。しかし、死ぬことは許されていないし、彼ら自身死ぬとは考えていない。自分の関心は利益よりも消費に向ければ、飽くなき消費の生活を送ることができるし、自分の欲望を満たす<モノ>はどこにでもある。しかし、本当に満足させてもらえる<モノ>はそこにはない。転じて、個人は絶望状態に陥る。この状態こそが、<生暖かい絶望>である。貧困はこの社会にはもはや存在しない。貧困を妨げるように、職はどこにでもある。生きるための賃金は用意されているのだ。しかし、同じくして個人を満たすような職業は存在しない。手に届かない場合もあるだろう。<生暖かい絶望>は、人間を生き地獄の中に閉じこめるものである。それは永遠の監獄でありながら、自分の手中に鍵をもっているのである。法律は鍵を持っていないのだ。


 心のセーフティ・ネットは、結局監視する者として、<生暖かい絶望>者に対して、目を向けている。そして、「こんなに支援しようとしているのに、あなたはどうして社会人としての義務を全うしようとしないのですか」と語りかけてくるだろう。それに対して、彼らのような絶望者は、一時は労働の社会に戻ろうとするが、すぐに自分の世界観に戻ろうとする。つまり、消費社会としての享楽の世界にしがみつこうとする。このような苦と楽という二方向の抑圧は、ますます絶望者を無気力にさせ、絶望することを認識させる。この社会は、運命と啓示を嫌い、ただサイクルとしての労働の生活によって成立している。それゆえ、生きるか死ぬかの瀬戸際を不要だとし、あなたなりに生きるようにしなさいと優しくささやいてくれるのである。<血>を流すということは言語道断だ。癒されなければならない、実際その癒しとは<生暖かい絶望>の別の顔である。

「語らない」という態度は何を意味するか

 ポリス時代では、発言する権利がある者は、声の大きい者であった、ということをどこかで聞いたことがある。微妙なところだが、ゲマインシャフトにおける相互了解の方法は、声を皆の届くところに聞こえるようにするという公的な方法と、もう一つは自己の内で<なんじ>なる所に触れること、《観照》(テオリア)としての方法であるのではないかと思う。


 それに対して、何人も平等であるとする法治国家としての現代社会は、発言すること自体が「基本的人権」に取り組まれているように思われる。よって、《観照》としての方法は抹消され、すべての人間が発言をするチャンスをもち、決定事になれば、こうした静的な態度は「なかったこと」として存在そのものを忘れ去られてしまう。


 「『何もない』ということは有り得ない」とする近現代人は、沈黙という用語が沈黙の領域に入ってしまっている。つまり、沈黙するという行為は、有り得ないのである。すると、必ず何かの主体的行為をもって、社会的存在者であることが認められる。ところが、「何もない」という意識、もしくはそれから現前される発言は、必ず志向性なるものをもっているのであって、「何もない」という発言が、誰にも向かわないということは、決してないのである。「何もない」という発言こそ、公的場所においては尊重されなければならない。沈黙とともに「何もない」という発言は、何よりも意味をもっている。それは意識の向かうところの対象がもつ欠陥、問題点を明確に指摘しているからである。


 にもかかわらず、我々が沈黙する相手を抹消したいという欲求に駆られるのはなぜか。それはもはや共同体としての性格を精神に求められなくなった現代人の性格のためである。環境問題にしろ、紛争にしろ、グローバリズムな問題の根源は、「何もない」所にある。「何もない」としてしまう無関心さ、それは経済力(資本)と持続的な社会の創造(開発)にしか関心がないという理由から生まれる。そして身近なところにも、「なぜ」という疑問が生まれなくなり、「どのようにして」強制力をかけながら相手を締め上げるかという「合理的な行為による非合理的な結果」しか生まれなくなったのである。


 このような現状に対し、「私」はどのような態度を取ることができるか。これは客観的にみれば、受動的な態度にしかならないが、あえて「私が欲することは『何もない』」という態度を積極的な行為として示していかなければならない。それはある意味ルサンチマン的な貧しい行為だけれども、不合理なものに対しては最大の積極的なものであると考える。不合理なペルソナを被った合理性と共にある存在者は、自分で領土を肥やしながらも「何もない」という発言によって、破滅と世界の終焉を自ら体験しなければならないのだから。それまでの我慢だと言わざるを得ない。

「参院選」の勝敗は、「メディアの報道」にあり!

 民主党が圧勝しているような現段階での参院選であるが、民主党ははたして国民によって直接的な支持を受けてこのような結果を受けているのだろうか。このような問いをする理由は、単に国民が自民党を信頼できなくなり、民主党を支持しているという図式が私には見られないからである。


 つまり、今回の参院選は本質的に我々国民の一般意志を引き受けては決して言えない。国民の「政治に対する怒り」はどこに向けられたのか、それは「自民党」に直接的に向けられた。しかし、それで政治は変わるのか、すなわち「国民の全体意志」へ向けられているかが焦点になるべきはずだったのである。


 私の意見では、今回の最大の要因が「メディアの偏狭な報道」にあると考える。安倍内閣は次の点で先立って悪い印象を国民に与えた。
(1)年金問題(事務所費など)
(2)大臣の問題発言
 大きくこの2点は連日のように報道されたのだが、そのメディアが焦点をこの点にあてたのは些か問題があると思う。というのは、メディアはこれらの問題の矛先をすべて内閣に向けていた。すなわち、今回の問題が「起こった」のは、現時点での内閣の「存在理由」にあるとしたマスメディアは、日本全体としての政治のビジョンをみていない。すなわち、その報道の背後に「スクープ(scoop)」としてのメディア報道の欠陥を持っていたのである。すなわち、今回の参院選の結果は、メディアの偏向した報道によって、奇しくも国民は世論を形成しなければならなくなったということである。以下は、現代メディアのあり方の問題点を挙げつつ、今回の参院選のメディアの報道の問題点を説明したいと思う。

§ 「スクープ」としてのメディア報道
 「スクープ」することは、何か全体としての政治に対して意味を与えるような、そうした開示的な意味をもっていない。「スクープ」するとは、前述の通り、スコップで掘り出すのが直接の意味である。スコップで土壌〔生活〕から問題をスクープするのである。それは、何か長期的な持続的な政治のビジョンを変革するような、我々の生活を包括するような問題を提起するのではなく、ただ国民から離れたところにある(国民の側から言えば「国民に手が届かないような政治」)ものとして、ただ現行の政治家の欠陥を洗い出しにする役割しかもっていないのである。メディアを媒介にしなければ国民が政治に関心を向けられないという現代日本の中では、政治のあり方を「政治家の発言、動向、賄賂」などの「側面的事実」に従わなければならない。そうして日本の政治が成立しているのだから、ある意味では現代メディアがその政治的野心で〔バイアスをかけて〕報道することが可能になってくるのである。それは、政治から離れて我々国民に伝えられるとしか考えられない。

§ 「生活」のためか、「政治」のためか
 国民が主権を取ること自体、私は悪いとは思わない。民主主義を日本がとる以上、日本の政治は「国民の生活のための政治」を第一に考えなければならない。しかし、これはどのレベルの「国民の生活」が問題になるべきか。

 今のメディアは、焦点を絞れない。ただスクープの連続である。何か問題があれば掘り起こし、全体としての政治に穴を開け続ける。それは個人としての国民の生活に直結しているが、ほとんどが長期的な日本の政治を考えられていない。年金問題に関しても、確かに国民の生活に重要であるし、これからの政治にも絡んでくるものである。だがメディアの報道内容をみよ。何を報道したかといえば、年金問題が社会保険庁を通り越して、安倍内閣に直結している。すなわち、これまで問題であった年金の不祥事をすべて現行内閣に帰依させようとさせている。安倍首相も、メディアの報道に配慮しなければならなく、結局首相就任中に解決すると言わなければならなかった。メディアはメディアのなかで問題の焦点を言いあてる必然性としての義務を放棄している。つまり、国民により質のより「政治」とはどのようなものかを「考えさせる」ような仕事を、そのメディアのもっている個人・組織的な「思いなし(オピニオン)」を伝達することに変換させてしまっている。そうすると、現代メディアの仕事は次の二点に決定できる。一つは、そのメディア〔組織〕の自己利益を拡大するという非-公共的目的。もう一つは、その目的のために、国民の世論を刺激するのではなく、常に不安定な状態にしつつ、一つのメディアが意図した方向へ誘導すると言うことである。その中に公共的な役割をメディアはもっていない。
 そもそもメディアの中に、全体意志としての国民の世論は、政治に反映されるべきだという当為的な目的が私的利益の目的にすり替えられているということに問題があると私は考える


§ メディアの手法
 現代日本のメディアの問題を示した。今回のメディアは、大臣の問題発言を取り上げ、民主党をはじめとした野党の問題発言は取り上げなかった。これらの問題は一部のネット(掲示板)でしか取り上げられなかった。

 新しいメディア〔インターネットなど〕の登場に注目しつつも、日本のメディア論者は、新聞・テレビから発される情報の絶対性から抜け出すことができていないのではないか。再三、私はメディア報道にこそメディアリテラシーを学ぶべきだと考えてきたのだが、それは今回の参院選前後の報道に顕著であった。メディアの全体は、大臣の問題発言を内閣不信に直接結びつけ、また年金問題を一元化して参院選の焦点とした。それは、国民の問題の「考える」という思惟行為を阻害しているようにしか考えられない。『啓蒙の弁証法』(ホルクハイマー/アドルノ著)から見られることは、この社会において、国民主権の意味が、国民が自発性をもって選挙に関与するということから、メディアによって先立って問題の選択をされるような図式が成立してしまっている。すなわち、国民に選択する決定権は個々人に確かに存在しているのだけれども、その選択肢はすでにメディアによって、もしくは利権団体によって狭められている。こうした中で、リアリスティックな民主主義の体制は見えてこない。
 こうした杜撰な日本のメディアの報道体制は、アメリカのものと基盤は同一なのだが、徹底性に関してはアメリカのほうが優れていると思う。それは良い意味ではない。つまり、アメリカは政府がメディアをうまくコントロールできるシステムを作り上げていると考える。それによって、アメリカ一国としての政治意識や、世論と言うのは自ずからと(それが結果として問題になるかは別として)一つにまとめあげられるのである。


§ 参院選の結果で何が分かるか
 今、挙ってテレビメディアが何故自民党が敗北したのかを問い詰めているが、概してその理由は自民党が国民の生活を真剣に考えられていないから、だということである。それならば、今後自民党の力が衰える政治のなかで、果たして我々国民の世論は反映されるのかという問い立てもできるだろう。しかし、その望みは薄い。

 つまり、国民の生活という政治として部分的な問題を重要視するという新たな政治体制では、全体としての政治の問題が疎かになるのではないか。その全体の政治の問題とは、国防、憲法、国連などの国際機関における日本の役割である。日本の政治はアメリカの民主主義の模倣であるにすぎないのだから、結局日本がどんな理想〔国民の生活〕を掲げようと、絶対的に「経済」の壁にぶち当たるであろう。つまり、国際競争の経済の問題は日本の企業・財界人はシビアに見る。利益拡大のためには、日本の精神を滅ぼしても良いと考え、国防よりも海外での経済を開発し、拡大することを善しとする傾向は、全体としての日本の政治が結果として思わしくない方向にいくと考える。

 以上の論から、これから我々国民は、主権者としてまずすべきことが、できるだけ多様なメディアから情報を得て、それを広く人々と共有することではないか。ますます「共に話す《場》」が消滅している。対話の場、たとえば主婦の井戸端会議から、大学のゼミから、居酒屋での会社員の話から、それぞれの立場で政治の問題点をそれぞれの視点で、深い話ができなくなっていると考える。もっとも公共的な対話の場が存在していなくて、ただ学者の理論で、公的な対話の重要性を主張されても、現実化されなければ机上の空論とまでは言わなくても、残念なことである。
 
 メディア・リテラシーをまずメディアの側から実践してもらわなければ、真に国民が「国民のための政治」について考えられないと思う。その教訓は自民党の敗北という今回の参院選が示すものだと考える。

第3章 (5)善と悪の諸説

 中世と近代との境界線をどこに引くかという問題は、それ自体で大きな議論を呼ぶことになりそうである。ただ社会学者テンニエスが社会形態を伝統社会としてのゲマインシャフトと利益社会のゲゼルシャフトとに呼び分けたこと、また理性主義が活発にみられるのがフランス革命の前後であることを考えるのならば、大体はその境というものが顕著になるように思われる。


 ただアドルノやホルクハイマーらの共著『啓蒙の弁証法』で、こうした時代区分がさらにイデオロギー化し、歴史の変遷や近代の闇の部分が現れる原因となった事項が中世以前の伝統社会から由来するのだ、ということを学んだ。それゆえ、近代以前、近代以降で歴史を分けることは、比較思想として用いることに止めようと思う。


 本節では、人と人との関係がどのような形で形成されるかをみる。一般的には、人と人との間の関係を共同体の構成員として考え、比較的どの時代の評価も肯定的である。近代以降の我々も、利益というゲゼルシャフト的なもので結び付けられ、契約を結んで人間関係を継続しているのである。否定的な関係、すなわち「よい」関係ではなく、「悪」の関係に焦点を当ててみると違うアスペクトが浮かび上がるのではないだろうか。


 これは、人間が生善であるような考えを否定することであり、人間が神の化身でありながら、絶対善でありえないことを認めるものである。例としてソフィスト派の正義についての考え方を紹介したい。ソフィスト派は、「正」を「不正」から由来させ、次のように定義づける。

善は不正を加える
悪は不正を受け取る



 ここで、善は「得」を意味したり、「正義」をも意味する。つまり、個々の善というものは、個々についてそうである限り、他人には「不正」を加えているものなのである。つまり、善でない人は、自ら不正を加える能力がなく、そうする状況に置かれていないので、常時「悪」の立場を享受しなければならない。善とは不正を加えるものとして捉えるとき、全体としての共同体は相対的に入手する得よりも、損害の方が多くなってしまう。


 法律とはこうした不具合〔不合理性〕を正すものであり、ある意味古代ポリスの時代から発生してきたものだと考えられる。それゆえ、この法律は近代以前から存在しており、近代という時代の節目において、意味が完全に変わってしまったと言ってよいと思う。というのは、法律とは合理性(ラショナル)そのものであり、善から生じる損害を避けるための人為的な道具だからである。人間関係が良いということは、その間に「不正」というものが生じない状況である。それゆえ、正義というのも、英雄的な意味を失い、ただ最善と最悪の中間点を取るようになったのである。こうしてみると、なぜゲゼルシャフトという社会形態が生まれたのかが理解できるのではないだろうか。というのも、契約によってゲゼルシャフトは成立するのだが、利益の最大保存を目的とすると、たえず対立するよりも利益を干渉せずに、利益はその組織において保存し、利権は共有するという体系をもつからである。

 人間は社会的存在者であるということは、第1章で述べたし、多くの社会学者が言及していることだと思う。つまり、人間が社会を作ると同時に、社会が人間を作るということなのである。ところが、こうした社会即個人という構図は、法律によって阻害される。法律は個人と個人との間の不正を正すことしかできないため、これが社会という(集合意志が意識されない現代においてそうであるように)抽象的で実感のないものに対しての不正は正されることはない。それは先んじて「隠蔽」されることが可能だからである。現代ではそれを見逃すまいと媒介としてのメディアが存在しているが、スクープしかできないため、それを我々の集合意志として形成を促すことができない。スクープとはスコップで掘り起こす意味をもつだけであり、それを、我々の集合意志に共鳴させることができない。むしろメディアの側からイデオロギー発信の役割を担おうとする傾向が日本、そしてアメリカに多く見られる。利益代表者的な自覚は、メディアをメディアたらしめないことに他ならない。つまり、社会と個人を媒介するはずのメディアは、社会のテーマにおいての個と個の利益関係を補助、伝達、公表するだけの受動的な位置にしか存在していない。それゆえ何が善で何が悪かということを現代人は自覚的に考えることを、あらゆる組織によって阻害されている。教育でもそうであるし、町内でもそうである。


 これが正しいのだ、という絶対主義を近代は相対主義によって克服してきた。つまり、「これ」でもないし、「あれ」でもない。弁証法的な手法はただ用いられ方によっては、粗悪なものになってしまう。つまり、これが正しくないのだから、どれでも(私が欲するものが)正しいのである、となっては困るのだ。現代人は見事にこの手法を無意識的に取り入れているといえよう。それは、個性を大事にするという一連の社会の動きにみられるように、「基本的人権」を強調するところにみられる。近代市民社会以降の考え方しか理解しない人間は、こうした本源的に具わっている「基本的人権」を曲解し、次のようなテーゼを考える。「個人はあらゆる対象から否定されることはない」というのが、私が彼らの主張をパラフレーズしたものである。つまり、自我はそれ自体が肯定されるのだ、と共振してしまうのである。自己主張の時代と私は現代を見るのだが、これは上で見たソフィスト派の善の考え方を大きく曲解している。もはや不正による共同体における個人間の損害を回避し、正そうという意向は全く感じられず、むしろ「不正」を相手に押し付け、自らの正当性を主張するのが、近代以降じわじわと現れて来た歴史の結末であるように考える。


 しかし、こうした狂気の時代に一つだけ現代人が怖れることがある。それは「血」という絶対的な存在についてである。現代人は「血」を怖れる者と、「血」を享楽に現実せしめようとする者とに分かれる、そう最初に述べた。流血すること、すなわち死に直結することについては、その現在進行的な事実には法律や基本的人権は無力である。それゆえ現代人はそれを撲滅しようとますます人権運動を強めるのである。「血」を流すことは、自己に対する「不正」の中でも最上位にあたると思う。だから「血」に関して我々現代人は、絶対に流すまいと賢明に現事実を否定しようと試むのである。すると、グローバル社会はますます隠蔽された市場において社会を拡大しようとするし、戦争はますます個人と関係のない高次元で半ば空想めいた話になる。そして「血」を流すことになった、その時点でようやく現代人は自己自身の無力さを説き後悔するのである。


 「血」を流す行為は一つの「善」である(他の例は後日、そして自殺はこれに「善」でない)。むしろ「善」に包まれ、「善」に昇華される。これについては次節で詳しく述べることにする。

第3章 (4)同苦としての<血>の役割

 本章では、リストカットをはじめ、自殺や他殺を対象に、血がどのような運動をしているか、もしくは役割を示現してきたかをみてきた。つまり、現代人の悩みがこれらの<血>に関わる社会的事実であり、ストレス社会という枠組みのなかで現代人はこうした行為に常に直面しているともいえる。リストカットは他者を寄生し、自殺は<同−情>として、血が他者に<情>を投げかけつつ流れ出てゆく。そして他殺は血を強奪する行為である。血を奪うという行為は、アイデンティティを喪失させる行為に他ならない。


 今回のテーマはそうした現代の憂鬱に対して、本来的な<血>が人間の生死とともにどのような役割を示してきたのかをみる。つまり、<同苦>と<血>がどのように相互的なかかわりをもってきたかをみるのである。


 <同苦>はその名の通り、「〜と共に苦しむ」ことである。それはただ同じ場所において同情し合うことではない。現代のソーシャル・コミュニティにおいてこうした状況が見受けられることは少なくない。同じテーマ〔境遇〕に向かった者同士が、対してその苦しむ原因を考えなく、ただ馴れ合いも同然なことをするということは、ただの<気晴らし>でしかなく、出てくる言葉もそれぞれの体験を話すことしかできない。<思いなし(opnion)>がそれである。苦しむことになった原因があたかも偶然的に起こり、私たちだけが苦しむことになっている。そういう風な思い込みは、結局その苦しみを<超克>することも、<共に解決する>こともできないであろう。ただカウンセリングすることになって、<気晴らし>ができても、根本的な解決にはならない。


 <同苦>は、宗教的な側面をもつ。隣人愛にみられるキリスト教の実践的な思想は、苦難の意味も含めている。「汝、敵を愛せ」だとか一見不合理なことも、宗教は個人の<私>に迫ってくる。その問いかけこそが、<同苦>の思想を共有させ、我々の源へ〔現存在としての我々〕に語りかけてくるのである。それは、問いであり、抑圧的であるが、そうした<考える場>の提供は、宗教のほかにありえない。ただ肉体的な苦痛ではなく、精神に語りかける苦痛である。血は肉体的な現われであるが、ゲマインシャフト的な宗教においては、それをも<精神化>させることがある。キリスト教におけるイエスの十字架という絶対精神的な表象は、イエスの個人的ではあるが、共同体全体の肉体を痛めつけられることの苦難をありありと現わして来る。それは、<共に在る者>たちへの語りかけである。イエスが肉体的に血を流し、その血が信者や異教徒たちへ流れ出ることは、彼らの精神を刺激し、再び共同体へ立ち戻るための大切なメッセージを刻むことになる。<同苦>とは特殊な限られた人々のためにあるのではなく、こうした絶対精神的な血の流れ出は、一般の人々にも語りかけるのである。<血>は個人的な肉体の苦しみを現していても、その向かう先には他者、すなわち<共に在る者たち>の精神がある。<同苦>とはこういった共同体的な意味合いを含んでいると考えられる。

 現代ではこのような境遇は一切見られない。例えば環境に対する想いや戦争に対する反対の想いは、上述の<同苦>の思想を無視している。というのは、我々が環境を守るというグローバルな問題を考えるさいにも、メディアを通してしか、その悲惨さを感じることはできない。そして、解決方法は「身近なことからはじめよう!」というなんとも楽観的なスローガンによって生まれてくる。こうした取り組みは、必ず失敗する。そしていずれは、環境破壊とはそれほど我々に深刻な問題となっていないと嘘をつくことで安心しようとする。第一にそれは、環境問題などの世界的な問題群は、我々に直接問われることはなく、すべて産業構造のシステムを通してである。それは、環境問題の深刻さを伝達するも、「広告」によって消費を促進という企業にとっての目的に摩り替えることが必然に起こるためである。環境を守るには、という問いかけも全て「エコな暮らし」「持続可能な社会」「地球に負担をかけない暮らし」という消極的な用語に摩り替えられてしまう。そこには<同苦>といった共同体的な思想はない。


 そもそも<同苦>とは、肉体的な血の流れ出があってこそ、精神的な苦しみや語りかけがなされるものである。それゆえ、日本の切腹〔自決〕というのも、実際的には共同体的な目的のためにあり、<語り継がれ>によって<同苦>の思想へと移り変わるのである。実際、肉体的な血の流れ出の主体は英雄化される。それは神話化であり、なにか超人間的な意味合いをもたされることになる。このことは、歴史の歪曲だという意味合いをもつのではない。英雄化としての神話形成は本来的にも歴史性をもっている。また、他者へと流れる血は、歴史性をともなって、時間の内に永遠なる特性をもち、現存在の我々の精神を揺るがし、考えさせる。それは、驚き〔thaumazein〕とともに、苦難を強いる。それを軽視し、否定するのは紛れもなく、近代以降の我々人間である。ただ客観性を重視し得たものは、金とモノと享楽的な生活である。そして失ったものはといえば、共同体性そのものなのである。

第3章 (3)流された血の「行方」と現代の諸問題

 どのようなケースにおいても、血を流すという行為は、他者に向かって流れ行く。なぜなら血を流す主体は即自存在の特徴を犠牲にして、様々な他者へその失われる即自性と、その個人的な本質というものをも流すのだから。

 自殺とは、「私」という生の意志を外部に捧げる行為である。そして、その行為は流れる血とともに「情」を他者に流す。そうする ことによって、他者は否が応でも自殺した主体にたいして、<同-情>することになるのである。この一方的な意志の伝達は、他者を困惑させる。自殺者の意志はその時点で消滅しているにもかかわらず、<同-情>によって、その<情>は他者の心の中で維持され続ける。そして、そのやり場のない<情>は他者の意志にも影響を与え、生の意志の生き場を変質させることになるのである。

 殺人によって殺害された主体は、生の意志を完全に略奪され、支配されることになる。即時性は消滅し、その血は自殺の場合と違い、生き場を失う。殺された主体の意志は、略奪者が意識していようがなかろうか奪われてしまっているため、それ以上<外へ>流れ出ることができない。他者は主体の<不在>を感じ取り、その<不在>であるということから一種の<情>を作り上げる。復讐や生の意志の変質はその他者ごとに違うのだが、この現代社会において、共同体的な、もしくは血縁的な<許し>はなされることが決してない。なぜなら現代社会は経済と法の支配する国家であり、法によって裁かれ、経済的な救済を被害者に関係する他者に与えるだけにとどまるのだから。法は<情>を汲み取らない。経済は<情>を貨幣に変換する。意志は理性(ratio)によって操作され、結局不満が残り、意志の略奪者は<許し>を得ないまま社会に解放される。

 現代社会とは、弱者によって成立している。それゆえに、経済的な豊かさを個人において得ようとする人間は弱者としてではなく、合理的な作法によって、ついには「強者」としての虚像を作り上げる。その技術(テクネー)は、誰にでもできるものでもなく、謂わば共同体の網を潜り抜け、<共に在る>ことを避けて通って来た人間にしか完成されることのないものである。近代の完成とはまさに、弱者のルサンチマン的性格が流出したことではなく、むしろ強者の表象と技術を会得した弱者による<線引き>、そして他者の<ルサンチマン化>である。それゆえ、この社会は法によって平等社会を謳うが、経済的な開きはますます大きくなる一方で、伝統的な<許し>の作法が消滅し、強者が弱者を<納得させる>ことによって、諸問題は解決されたことにされてしまうようになったのである。日本は戦後のある時期まではこの問題を深刻化させることなく、つまり伝統的な(ゲマインシャフト的な)要素を完全に喪失することなく維持されてきたのだが、今になっては強者の怠慢により、弱者としての国民は不満が頂点に到達しそうである。にもかかわらず、その怒りと不満が強者に向けられないのは、完全にシステムに屈服している図式が我々に示されているからである。

第3章 (2)自殺か殺人か

 人間は結局のところ「二者択一」の内でしか自己決定ができないと私は思う。そして、生きるか死ぬか、というような問題も人間の不可避的な問題である。生きるということは、意志の問題であり、行為そのものが意志に基づかなければならない。
 意志の絶対的な支配力、ということが近代以降のヨーロッパ、そして近現代の日本などにも影響を与えるようになった。世界大戦からホロコースト、植民地支配から自由資本主義の支配まで、すべてにおいて頼るのは金と支配しようとする意志であったに違いない。揺ぎ無い意志こそが強者の必然の力であるということが、近代以降の社会形成を促した。

 我々は自己を反省することによって、過去に出入り、そして未来にも時空間に沿って流れ生きる。実存としての個人は、物として、「人」という文字としてでは存立できない。それゆえ、人間という存在者の存在は結局形而上的にしか把握できない部分が明らかになる。

 人間は重層価値的な存在者である。動物はそうではない。動物は生態系という一つのシステム内の存在者である。人間は生態系以上にシステムをもっている。個人のレベルで、人間(自我)はたえず悩んでいる。それが生か死かの問題である。死ぬことすらも選択肢に含められるのは人間だけであり、どんなに蔑まれても生きようと意志できるのも人間だけである。

 ただ先述のとおりアイデンティティは、ただ孤立する一人の個人によってなされることではないのだから、なんらかの<他者性>や<歴史性>などの特性とともに確立されなければならない。自傷行為とは、自己否定的なナルシシズムである。このナルシシズムとは、自己愛的な面よりも、<他者性>の欠如ゆえに人間感覚が麻痺しているという意味合いをよりよく示している。共通感覚の麻痺によって、人間は私個人で生きていけるのだと考える。それどころか、この世界は私だけしか存在し得ないということさえ考えてしまうだろう。そうなってしまうのは、やはり社会的な抑圧を誰よりも受け、自分の<場>をもてなくなってしまったためであるし、それが自己の孤立化にも繋がってくるのである。

 自傷行為は自己の存在を放棄することであると述べたが、実際人を殺めるということも自己の存在の放棄と同じことであるとも言いたい。近頃の凶悪犯罪というのは、生の否定の対象が「我」か「お前」かという二者択一によるものと考えなければならない。これは、殺人を犯した人間が自分をしか傷つけられない人間よりも優越であるというものではなく、裏表の関係にあるということである。

 ということは、殺人(多くは強姦から集団暴行など、そして腹癒せの犯行まで)は、自己のやり場を失い、さらに社会的抑圧を感じている者による犯行であると言える。それは、近代以前の日本人にみられた、人情をともなった犯行、そして生きるためだけの強盗、さらには弱きものを助けるための復讐などとは同じように考えられてはいけない。なぜならそれらの犯行は「生」か「死」かという問いを現前に突きつけられた人間がそれに答えようという態度をもったときに始めて犯行が可能だからである。

 近年増え続けている凶悪犯罪の場合、「生」か「死」かという問いがあっても、答える必要はない。また答えなくていいと犯罪者は考えるであろう。なぜなら彼らには弁護士という最大の理解者がおり、法律によって彼の「生」は絶対的に保障されるのであるから。現代社会の大きな矛盾となるのは、一方で「生」の大切さと尊厳を説きつつも、その一方でそれを犯した「生」もまた保障されるということである。ストレスに悩まされる現代人にとっては、拷問であり、ゆえにそれを回避できてしまうと、このような凶悪犯罪が生れてしまう。「生」の放棄を希望する人間が多くいるのに、その大半は現前される「死」をまともに享受しようとする人間がいない。ただ「許される」という人為的で病的な「救済」によって、どのような犯罪も法治国家では救われるのである。「生死」に向き合うことを恐れ、また向き合わずに他人の「生」を犯し、もしくは自己の「生」を放棄するような状況では、犯罪は少なくならないだろうし、これからさらに凶悪化していくであろう。近代的救済措置があるがゆえに、我々の共同的な「安全」は脅かされているのである。

第3章 (1)リストカットは「死に至る病」である

 リストカットをすることが自分の存在を示すためだ、ということを聞いたことがある。つまり、リストカットという行為が私と「他者」との関係性における「自己」を認識しうるものにするということか。しかし、「血」を流すということの意味は、「私が生きていた」ということを思い浮かべさせなければならない。「血」とはそれ自体ではどうすることのできない存在なのだから、やはり私が存在し得た刹那が私の「生」の証明である。いわば「血」が流れるということは、私の本質が流れ出て廃棄されているということと相違ない。それゆえ、リストカットは「生」の放棄であって、アイデンティティの確立と混同してはならない。

 生きるためにリストカットをするという人間は、そのまま自分の流れる血をみつめながら、なかば虚無感を感じながら生血の喪失を実感するであろう。その虚無感は、実行者に「生血」は流れるのに、「私」が不在するのを目下することを認識させる。「自己」を生成させようとリストカットをしたのに、結局は「自己」を流してしまって「生」そのものに存在価値の無意味性が明らかになるのである。労働と同じで、リストカットやそのほかの自傷行為は、「再生産」という果てのないサイクルである。そのサイクルから一度出てしまえば、万事解決するのにそれができない、これこそ現代の「死に至る病」の一つであろうか。

 リストカットおよび自傷行為は他者が必要である。しかし、これらの行為は全く共同性を欠いていると言わざるを得ない。共同性とは、人と「共に」あるということと、人と人との「間」にあるということである。リストカットは自傷者が自分を傷つけられることを「見られる」ということを望んでいる。もしくは、自己を外化させて、自分が傷ついている自分を「私」が見ようとする。それぞれ他者は観客であり、自傷者は「感想(オピニオン)」を期待している。彼らは情を自らの行為によって得ようとする。同情を得るか、「馬鹿!」と言われて、止められるか、だいたいこの2つが可能性としてあるだろう。どちらも「情」がこもっている。しかしその期待される情は、その場でしか現れないゆえ、その場面が移り変われば、情は虚無へと姿を変える。そうして不安だけが「私」に残る。

 自傷することは、私の存在を示すどころではない。私を捧げている。無償で。なかば強制に。なぜなら自傷行為は「私」の剥奪であり、それこそがプライベートであるから。プライベートと言うのは、「私だけの」の意味ではなくて、奪われるという意味である。自傷行為は、「私」だけでは成立しない。結局他者か、自己を外化させる他の「私」を必要とする。「私」の正当性を相手に奪わせることによって自傷行為が正当化されるのである。自傷行為は寄生虫的な行為である。それゆえこのような振る舞いは、公共性を失わせることになる。ますます社会から疎遠になってゆく、よほど献身的な他者がいなければ立ち戻ることはできないであろう。

 自傷行為は、日本の切腹や自刃、そして自決のどれとも関わりがない。日本の習慣に自傷は含まれない。血を流す自傷行為は、自己証明ではなく、「そうなってしまった可哀想な私」を消そうとする行為である。それ以上の価値をもっていない。そんな「私」を他者に無理やり奪わせておいて、「私」は生きようとする。やはり、自傷行為は現代の死に至る病である。

第2章 (7)流動化する<場>

 人という存在は、<場>をもってして自分の存在を存立し続けることができる。人間を含む存在自体は、何よりも先に生活するための世界に産み落とされる。最初の<場>は世界そのものである(べきである)。多様な機関ができるようになっても、<場>があるということだけは疑いようがない。<場>はいつでもそこになければならない。

 しかし現代は<場>が流動化するようになっている。手探りで、自分の手足で探すことのできないような<場>が我々の世界を侵しはじめている。当初は、金融、そして保険などが。今では、仮想世界のインターネットがそうである。我々は<場>に出会わなくても、用意されている。現実世界では限界があっても、デジタルの仮想世界ではそれが常時無限に近い。<場>とは人間の行動を自身が理解できる限りにおいて自由が許される。その限界がなくなってしまえば、理解を超えた妄想の域を過ぎ、利用することに熱心になってしまう。そうすれば、自己と<場>は離れ、<場>は人間の思惟によって作りかえられてしまうことが考えられる。実際、人間それぞれのニーズに合うように作り変えられるのだから、根ざした<場>はその気まぐれなニーズが変化すれば、その<場>は不必要とされ忘却されてしまう。そして、<場>は我々の認識から流れ落ちてしまうのである。

 現来、人間が動き、世界は我々を包んでいた。むしろ<場>において一体性を認め合うことが、<共に>生きることの事実であった。ところが、近現代にかけて、フラグメント化した<場>がどんどん切り離され、結局は利便性に基づいて客観的な判断によって流すか留めておくか、それとも腐らせてしまうかという自由度が設定されるようになった。人間が組織的存在者でなければ、そして市民としてしか存在できなくなったのは、もっとも身近な存在を忘却したからである。それは我々が自分たちの生活水準を高めるために必要だった。代償であり犠牲でもある。その犠牲は本来のように一回きりのもので、未来に繁栄の光を射るためのものであったのに、今では未来の子孫までもが先立って犠牲になっている事態を招いた。現代人の悲劇は、一方で便利性を求め、未来永劫の栄光をえるために必死に労働し、政策を練るのにもかかわらず、その一方でたった一度の「今」を一番貴重な瞬間にするために、たえず<場>は流動的でなければならないし、たえず革新していかなければならない。世界はゲーム盤であり、人間はプレーヤーである。自然は障害物であり、オブジェクトである。ライフは一度であるのに、そこではアンデッドである。戦略は合理的に考えられ、勝利という目的にしかプレーヤーは興味がない。そこでは、<場>の必要性はない。ザラザラとした無機質なゲーム盤は、どこでも同じような<感じ>がする。
 
 <場>の流動化によって、我々にもっとも近くにあるはずの<血>も簡単に隔てられるようになった。すぐに新しい家族を作り出すことができる。それを法律は何も厭わずに認めてしまう。現代人は自分の思い通りに行動できるようになったが、合目的な効率性の追求を社会の目的としてしまったがために、群集を結成しなければ、つまり社会的・組織的存在者としてでなければ存立できない。それだから、一部の人間はいつも癇癪を起こしたり、暴虐的になったり、何でも許される心持をしてしまう。<場>のもつ公共的な秩序が消えて、個人は孤立しつつ自分を同じような仲間や利益共有者のような見知らぬ人々と関係をもたなければならないという掟のしわ寄せを受けなければならないのである。<血>の在りかを知りながら、私というものがその<血>という本質に基づいていることを知りながら、我々現代人はそれを忘れなければ仲間外れにされてしまう悲しさをもっている。それゆえ、その<血>というものを一般人はみるのを怖ろしがり、疎外された人は<血>が自分自身から流れていることを見なければ自分という存在を探れないのである。<血>は悪役に化した。我々がそうしたのである。我々が<血>と共にあるということを、我々の意志によって<血>の短さを忘れようとしたのである。そうして<場>も意志の彼方に置き去りにされてしまった。そうしなければ人間は自己開拓できないから。この世界を革新し続けることができないから。そうして、我々の<血>が止まっていることも知らずに、我々は限られたスペースのゲーム盤の世界をどこが出口かも知らずに、延々と走り回っている。「生きなければ、生きなければ」と背後から亡霊のようなものに付きまとわれている……

第2章 (6)子どものレベルでの<場>の私有化

 子どもが悪いことをしたときに、唯一裁き、更生させることのできる存在とは、だけだと思う。学校ができるものではない。もちろん学校側は、体罰を極力なくし、制度的な立場から出席停止処分や、夏休みの強制的な登校を求めるにとどめるほうがよいと思う。地域レベルでは、そのような悪ふざけが過ぎる子どもは、町内一周のゴミ拾いを一週間ほどさせたらいいのではないか。力によって制する。力によって認識を正す、という認識が否定される現状ではこのようにするほかないのである。

 現在の社会の構造がいじめをなくすことができないのだ、という主張は明らかに的をはずしており、解決の道筋すらも立てれえない。そのように社会構造が悪いから、みんな平等に平和に暮らせないのだと言ってしまうは、マルクス主義と民主主義の間にある溝のぬるま湯につかっている快楽追及者であるようにしか思えない。つまり、下部構造によって社会ができ、みんな「一緒」に作り上げようとするレジャーランド的なユートピアを構想してしまっている。楽をしつつも理想主義を守り抜くとはなんとも近代市民社会の思考を反映している。

 「いじめ」の問題がなぜこのように問題視されてしまうのかと言えば、教育の理想が皆が平等の教育を受ける権利があるからなのであって、それだけのためにマスコミや教育論者は無駄な汗と我々の税金を利用している。ここに不−平等−社会という虚像を立てなくとも、我々はなぜ「いじめ」が起こるのかが理解できなければならない。つまり、パワーバランスの問題である。支配する者−される者の二分化が必要なのだとは言わない。ただ教育に関する認識に必要なのは、支配する可能性をもつ者と支配する可能性がない者との間には、アリストテレスが考えた自由人−奴隷(servant)の関係と同じような関係性が含まれているということである。だから支配できるからいくらでも支配し、酷使してもよいという権利があるわけでもあるまいし、ましてや支配する可能性がない者は、いつまでも支配され続けるような惨めな存在であり続ける必要性はない。両者の根源的な本質は相違がなく、むしろ同じ「人類」として、もっとも「現存在」として存在しえているということを念頭に入れなければならないだろう。それを踏まえたうえで、可能性を秘めた者は、そうでない者がどのような存在様式をもっており、どんな立場で社会を形成する要員であるのかということを把握できなければならない、そのような可能性がなければ、支配できるという考えは妄想であり、奴隷以下の自己欲求を満たすことのできない単なる人間でしかないであろう。

 さて、学校という<場>の私有化は子どもの手によっても完成される。つまり、学校は、サービスだけが公のものであり、<場>自体は私有のものなのだ、ということを認めざるをえない状況にある。皆で一緒にというのは形式の上である、つまりサービスの上だけである。例えば、身障者は特別学級から普通の教室で勉強し、クラスや学校の行事に積極的に参加できるようになっている。これは社会参加という観点から観れば、推進すべきものだと私も思う。ただし、サービスの上では、他の生徒と同じだけでは、真の平等社会は築けないし、参画社会などは妄想でしかないだろう。何が起こっているかと言えば、生徒は生徒として扱われているのだけれど、どうしても<場>の<雰囲気>に溶け込めず、<場>に<自分の場>が存在できないという問題が起こっているのである。暴力はいけない、生徒はヒエラルキーのような構造をもって区別されてはいけない、皆が同じようなサービスを受けられ、皆が同じスタートラインに立って、皆が同じような価値観を(最後には)持つことができればよいというような、あくまで理想主義的な幻想によって「いじめ」は生じていると考えるべきであろう。

 学校全体で一番強いリーダーがいるということは危険である。乱暴な振舞をされる心配もある。ただいざとなったら守ってくれるような存在が(これも或る意味では理想なのだが)いてくれる場合、個々のサービスは不平等になることがあるが、<場>はしっかりと共にもつことができるのである。学校の中で自分がどこの位置に立っているか、それが今の学校、しいては社会全体ではできない。それをやってのけようとする人間は、組織的人間としてしか存在できないばかりか、己の自己利益に見合うような振る舞いしかしない共同的−合理主義者である。現代の学校は、生徒会があっても機能しない。クラスは、先生を中心に展開できない。なぜならば教師と生徒は対等だから。それゆえ、授業は先生から始まるよりは生徒全員のスタートラインを引くことからはじめなければならない。授業が謂わば補習の延長である。生徒も生徒で明確なリーダーを持っていない。リーダーがいても、全体のことは考えることができない。クラスの中は、個々人の自己の<場>の取り合いである。どこに自分が自由に存在できるか、それには自分に関係ない人間の場所を奪わなければならない。それには一人ではできないから談合(グループ化)をするのである。「いじめ」の根源はここにある。たまに社会は、学校はサバイバルだ、と言う人間がいるが、私は半分賛成である。だが、サバイバルだからゆえに、談合のような自分の存在維持を考えるのではなく、自分の生命を維持できない人間をも包括できるようなサバイバルが<世界−内−存在>にとっては必要なのではないか。

第2章 (5)学校の二分化−公のサービスと<場>の私有化

 私有化された学校という<場>は、もはや公的な性質を保つことができない。つまり、「〜と共に生きる」ことを養う<場>としての機能を失ってしまったのである。具体的にどのような私有化が行われているのかを述べてみたい。

 第一に、学校が公的な「サービス」であるということが全面的に理解されてしまい、<場>としての有効性を剥奪してしまった。つまり、勉強する<場>にしても、活動する<場>にしても、学校という公的で特別な場所でなくても生徒は代替的な<場>を確保することができるようになった。現代人は、公的な学校という<場>と私的領域における塾などの代替機関の「サービス」とを同じ天秤ではかろうとするようになったのだ。そうなれば、「金さえ出せば……」という経済合理的な考えが保護者の中に大きくなるのは必然であろう。何もこのような合理的な考えは、戦前もあったのだが、しかし注意しなければならないのは、保護者が「金さえ出せば、学校での学びを疎かにしてもよい」と考えてしまうのは、自己中心的で公的の<場>の構造そのものを破壊してしまう。それが何十年も続けられてきた。

 私の経験を少し紹介したい。バイトで塾講師をしていたとき、中学の塾生の運動会に行ったことがある。そこで、生徒が学校の先生に私を紹介してしまったのである。そのときの先生の皮肉のこもったコメントは忘れられない。「勉強は塾でしっかりやって、生活態度は学校でしっかりしよう。」私は愕然として、いまや公立の先生の認識はこんなものかと思った。ただ先生だけが責められるのではない、日本全国の保護者の学校に対する認識が極端に駄目になってしまったということである。

 学校を公的サービスとみなすようになってから、社会的存在として参加すべき「私」がますます遠のいていると考えられないだろうか。つまり、国民としての「義務」が個人の「自由」と対立するようになってから、現代人は、得するところは得をして、見えない不必要なところは無視をする。現代人は社会的存在者というよりも、マルクスの言葉を借りると「労働する動物」以外の何者でもなくなってしまった、と言ってもよいと思う。経済価値に見合わないものは排除という近代市民社会的な思考は、戦後の日本では当然のものとして受けいれられてしまった。現代人は学校の<場>の有意味性を破壊して、破壊しきったところで「得」の残飯をたかるようなものではないのか。

 「学校」と「家庭」と「地域」の3者の協力が必要だ、と今の教育論は主張する。しかし無駄なことだ。3者は各々の利害だけを求めるためにあえて分離したはずである。わざわざ地域ぐるみの祭りやイベントを取りやめて会費を集めることにしたのではないのか? 殊に、会長と名乗っている人々。そして、自分たちの<時間>を大切にするために、自分たちの子どもが主役になっている部分だけを切り取ろうとする私欲旺盛な家庭の態度は、これからますますエゴを主張し続けるだろう。学校はますます<場>としての効力を失う。その影響を受けるのは子どもと先生である。今、教育論を主張する人の多くは、子どもだけを見て、もっと〜すべきだ、と言う。それは間違いである。大人は自分を省みてほしい。それが先決である。上述の3者協力の体制は実現不可能であるし、実践でやって成功した例をいくらあげても、学校という機能としての<場>を見落としていたら、持続的な共同性は取り戻せないだろう。


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第2章 (4)学校という公の<場>と「いじめ」の問題

 学校における現代の問題は大きく分けて、(1)いじめ、(2)ナショナリズム、(3)学力格差である。これらを<場>というフレームに当てはめてみるとどうなるだろうか。だいたいは社会学的に説明できそうに思う。

 第一に、いじめは前節のとおりに行くと、現代の学校におけるグループは群集化がひどく進んでいる。グループ自体は存在しているのだが、好きなもの同士仲良く遊ぶものである。つまり、各グループが自主性をもち、自分たちの思い赴くまま「遊ぶ」のであり、行動をともにするのである。日教組の教育政策の愚となるものは、ここに現れている。しかも、このグループの群集化は、大人の世界(社会)と同様の内容であるがゆえに、この子どもの群集化は当然のように思われている、ということがおかしい。
 友達とは、仲良しではないのか、という認識は正しい。しかし、友達という群集は、排他的である。つまり、好きでない人間を孤立させることができる。いじめはこう発生するのではないか。ドラマや特集のテレビ番組で、「なぜ」いじめが行われてしまうのか、という問いかけは、こうした社会学的な見方によって回答することができるのではないだろうか。殊に、人間の心理に「なぜ」を問いかけても、それは無駄なことである。犯罪者に「なぜ犯罪を犯したの?」と聞いて、「むしゃくしゃして」と答えるのが多いのは、こうした心理的な部分で、しかもケースで考えてしまうことである。

 リーダー的存在が必要なのだろう、という回答も当然私の中にはある。しかし、今の学生や生徒の様子をみると、「いじめ」を無くさせるようなリーダーは存在しない。むしろそのリーダーの存在によって、「いじめ」が生れていると言っても過言ではない。つまり、リーダーという優越的存在が群集化に飲み込まれることによって、リーダーはそのグループの主体的存在としてしか機能しないのであって、何もそのクラスの、その学校の「オーガナイザー」では決してないのである。

 それゆえ、学校という<場>は公的な場所ではない。そもそも公的な場所とは言いがたいのだが、共同性という観点でみると、ますます近頃の学校は公的サービスを受ける人間によって汚染されていると言ってよいだろう。換言すれば、私有化されているのである。
                       


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第2章 (3)遊びの<場>の消滅

 子どもが成長するにあたって、遊びの<場>というものは、必然的に作られているものであると考える。だから、大人の関与は一切受けずに、<場>は作られる。つまり、子どもにとっての子どものための秩序がそこにあるといってよい。力関係だとか、いじめなどもあるに違いないが、概してそういう力が強い者が遊びの<場>をつくり、守る役割を担うのであろう。言ってしまえば、子どもにおける社会がそのまま遊びの<場>にあてはめられると考えられてよい。

 確かに、いじめ問題は、すなわち暴力による解決はあるとみなしてよいと思う。そして現実の問題として、それは社会問題なのであると見なしてもよい。例えば、父親の話では、学校ごとに大掛かりなグループができ、そのグループ内にはヒエラルキーとしての秩序があったらしい。そして、一度裏山かどこかで他の学校のグループと陣取り争いがあると、血みどろの戦いになって、警察沙汰になったことがあると言っていた。一見怖ろしい関係の中に、<場>の観念が働いていると思う。上の人間は下には偉そうにするみたいだが、何かもめごとがあれば先頭に立って解決しなければならない。そして、なんとしてでも自分たちが築き上げた<場>を死守しなければならない。これを大きくすれば、国家の問題にもあてはまるのではないか。

 ところが、現代社会というものは、「こう」であってはいけない。「暴力」という言葉と雰囲気が見えてはいけない。隠蔽しなければならないのだ。

 このような自体は、いまの子どものレベルからでも十分観察できる。というのは、遊びの<場>が消滅しているからである。前述のとおり、今の子どもにとって、遊びの<場>は自分の手の中に存在している。つまり、自分の中で遊びの<場>を作り出してしまう。その手間はかからない。消費活動をとおして、金を出せば誰でも同じような<場>をもつことができるのである。しかしその場は、共有可能性を秘めていても、共同体的ではないことは容易に理解できるであろう。つまり、現代の遊びの<場>は流動的であり、いつでも「そこ」には存在していないのである。学校から帰ってきても誰々の家に集合、もしくは図書館だとか学校の校庭だとか立派な<場>に集まったとしても、することはたいてい通信ゲームである。

 このようなことが好ましい、好ましくないかは結局現代人の各々が決めればいい、ということになってしまうのであろうが、気楽さを求め、目的以外のことで関わることを避ける人間にとってみれば、「そういう遊びもありだ」という惚けた結論に至るのであろう。CSR(企業の社会的責任)が注目される中、ISR(個人の社会的責任)ということもいずれ出てくるのではないかとふと考えてしまう。(そんなくだらない規制はでてくることはないと思うが)



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第2章 (2)なんのためのか

 現代人に<場>がないのは事実だが、なぜこのような事態をまねいたかといえば、大衆消費社会を受けいれるための準備をしていたからだ。公共的な目的の<場>よりも、我々現代人は個人が個人として行為することができるスペースを確保してきたのである。

 それでは、この個人のための<場>、いわばスペースとはどのようなものか。それは、労働する<場>、消費する<場>、そして住居するための隔離された<場>である。個人が個人たるべき<場>といえばこれ以外ありえない。すべては消費するために<場>を設け、それを補助するために労働する<場>が作られている。そして、住むべき<場>はすべて個人的なものとして隣人と隔てられている。

 このような状況は、すでに戦後〜高度成長から言われ続けてきたことであるが、それにもかかわらず事態が深刻化しているのはどういうことか。私は子どもの教育とともに、子どもの生活の<場>が問題となると考える。社会とは大人の<場>であるとされ、学校はそのための養成場とみなされることがあるが、私はだいたいのところ同意する。しかし、それだからといって、子どもとして、発達時期の人間にとって必要な<場>が与えられていないのはあまりにも悲しいことである。遊ぶ<場>が自分の家の中にあり、自分の手元にあるのだ。

 社会が共同体としての役割を果たせないのだ、という私の主張に反対される方は少なくないと思う。だが、私は身勝手に社会が個人を圧迫して、人権を害しているなどとは言うのではない。共同体としての多数性が社会にはないとは前述のとおりではあるが、私はこの<場>の問題でも、同じような結論が出ると思う。つまり、我々が公共的な<場>を共有できるのは、消費と労働との<場>が重なる部分であると考えるのである。買い物でも、個人のための<場>であり、遊園地もそのような<場>である。祭りやイベントも消費と労働の上で成立している。それ以外を考えられるだろうか、ゼロとは言えない。しかし問題なのは、<場>がないということではなくて、<場>がだんだん少なくなってきているという事態である。

 このような状況が起こりえたのは、戦後レジームの協調型の外交と国内経済発展の重要視によってである。効率化と合理的な資本主義の改革によって、「追いつき型」経済のフレームに入れられた日本国民は、個人消費とそれにともなう経済水準の向上によって勇気付けられてきた。ところが、ここまで共同的な部分を失ったのは日本以外にないと思うのである。つまり、日本には宗教が削られた。宗教によって日本は破滅したという観念によって政教分離がまっさきに唱えられた。それは経済が国家の第一目的になったのだということである。西欧は徹底的な個人化がなされているというが、これは正しい。個人的な<場>というものが明確に現れている。しかし、その一方で、共同的な<場>がしっかり根をはって残っていることに注目しなければならない。アメリカでも、都市部を除いて、共同的な<場>によって個人を超える結び付きが確認できる。

 日本もそれでは宗教を大事にすれば、共同的な<場>が取り戻せるのか、といえば、私は困惑してしまう。現代日本人が考える宗教とはカルト的で、勧誘をともなう。つまり、西欧の宗教は国家にもある程度むすびついており、地域や個人のレベルでも生きうるものである。このように世代世代つながりをもつようなものを「文化」と呼んでいいと考える。ところが、日本のものは国家に反するものが多いうえ、個人を滅する場合もある。そして、最悪なのは政治にしか結びついていないものもある。日本的なものは「文化」とも呼べない。何か怨霊がとりついて、<場>の重要性が有耶無耶にされているように感じる。

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第2章 (1)なき現代社会

 現代人は自由であることを事前に認めている。自由であることを賞賛され、自分が自由でないということを必死に否定しなければならない。現代人は自由であるということが一つのアイデンティティ〔自己証明〕となってしまっているのだろう。

 それがゆえに、現代人は<場>を好まない。拘束されるから。自分がその場に居合わせることが今では窮屈で古臭くて、形式主義的なイデオロギーであるとも言われるかもしれない。

 社会問題はこうしたところから派生する。それは技術によって、<場>を感じさせない有用性の問題が生じたことによって引き起こされるのだと指摘できる。我々は活動をどこでもすることが可能になったかわりに、特別な固有の<場>というものを忘却の域に追いやった。電話をするときは、家(つまり<場>)の中ですることが当然であった。プライベートな<場>ですることが礼儀でもあった。なぜならその話の内容が公のことではないから。現代では、その領域を破壊して、全く自由に話すことができるようになった。社会的規範とは、このようにして壊され、新しいものに変えられていく。それは進歩の意味を含むが、その進歩の意味には、最も身近な何かを含んでいないのである。

 <場>を維持することもしなくなった。公でも家族内でも<場>は維持されることはなくなった。維持する主体がいるということは、維持される客体がいるということである。我々は、維持するということを拘束するとして、維持されるということは自由を奪われるということと誤解してしまっている。

 私自身、<場>は個人的なものに堕ちても、存在し得ると考えている。しかし、それは一人であるがゆえに、虚しいものなのだ。現代では、<場>を組織と置き換えてしまっている。特別な<場>ではなく、合目的に存在させる自己利益追求のための組織である。同じ関心の人間が集まり、個人ではできないようなことを成し遂げようとする。しかしそれはあまりに公的から離れている。(そのことに彼らは気がついていない!)人間が一人では生きていけないことを逆手にとって、組織を組んで不要な人間をことごとく消そうとする態度は、悲しいかな民主主義でも全体主義でもどの主義(ism)においても採用されてしまっている。

 <場>がない現代社会は、無数の漂流者を生んでいる。組織にくっついて利益を得て満足している人間もいるが、最近ほとんどが<場>をなくす人間が増えているのは確かである。

第1章 (7)現実逃避はコメディである

 「現実逃避」、この用語は現代人が好んで用いる決め付けの一手である。相手に「現実逃避」という用語を投げかけても、自分に投げかけても、はコメディと化す。このコメディの雰囲気は、はじめぼんやり現れて、しだいにその湿っぽさと陰鬱なイメージを与える。コメディという場は、客観的ではあるが、同時にもつ陰気な感じは決して客観的ではありえない。

 つまり、現実逃避が行われるには、すでにアクターが決定している。嗤う者と嗤われる者。一般的に嗤う者が多数で、嗤われる者は少数である。一番大事なのは、嗤われる者が真剣にそのコメディを作り上げようとすることであり、嗤う者は不真面目にその対象を嘲け嗤うのである。コメディとは不運にも嗤われる存在者によって作り上げられねばならない。そして間の関係もまた不運にもコメディとなるのである。共に生きるであった場所が、コメディとなるということは、或る意味で必然的結果であるが、それがゆえにくだらなさという主観的感動が現れる。そして、その感動は最終的な客観的現実として保存されるのである。

 現実逃避とはコメディであるのは、間の関係によって示されているが、実はもう一つの役割人物がいる。それは観客である。それゆえ、嗤われる者は二重に嗤われる結果になるのである。現実逃避としてのは、コメディという名をもつことによって、拡がりが大きくなっていく。そうして、そのでなくても、嗤いとは起こりうる。しかし、現実逃避としてのから離れているところにおけるコメディの性質は、もはやくだらなさの雰囲気しかない。そう、客観的に言えばだ。そして、嗤う者、観客がそのくだらなさを感じ始めて、ようやくコメディ自体が闇に葬られるのである。

 それゆえ、現実逃避とは共同体では決して許されない行為である。そして、我々が生きる社会でもそうである。なぜなら現実逃避とは、あの嗤うことしかストレスを発散できないような群集の餌食となるから。
 現実逃避とは私においてのみ許される。それゆえ、それを外に感ずかれないよう注意しなければならない。実際、現実逃避をしていない人などいないのだから。ただ社会の歯車にはまって、出られなくなり、それを楽しんだり快楽を受け取る人間はそうではない。彼らは社会的存在者としての見本として、すなわち主人公的役割を担っていると勘違いしている。我々の社会に主人公的存在者はその役割自体存在しないのだから。

第1章 (6)群集ゆえの逃避

 我々の生きられる時間とは血をもって刹那である。しかし、日常性にも生きる我々にとって、時間はときとして我々を抑圧する。生きたくない時間がまた存在するのは、極めて個人的であり、社会において特徴的である。それはあまりに個人的であるがために、生きたくない時間は共時的ではない。そこで、生きたくない時間をそこで終わらせようと、現実逃避しようとする者が現れるのである。

 現実逃避とは、他者との関係性の断絶において起こる自己疎外である。群集である現代人は、極めて自分たちの間だけの公共性を考える。群集が群集として成立するためには、永遠の仲間意識を持つことができない不安定性がいたるところに染み込んでいるのである。なぜなら、群集というのは多数性ではなく、単なる気分的な集まりだからである。安定性を得るためには、かならず不調和を発生させなければならない。仲間割れを経験することによって、新たな群集としての協調性を得なければならないのだ。気分的な行動は、そうして仲の間から外れる者を生まなければ存立しえない。

 近代的組織も公共性としての、共同体としての意味を大きくはずしているが、まだ共通認識のうえで成立しているから安定している。群集としての仲間は、ただ気分だけで共にいるという幸福を味わおうとしているだけなのである。ゆえに、長時間共にいることはない、今ここで幸せだったらいいのである。なぜなら幸せは刹那であるから、だと言う。なんという横暴だろうか!

 いじめとはそのような類のものである。何が嬉しくて、学校を小さな社会と呼べようか。ただの動物園である、この比喩はつまり管理される場という限りで説明される。子どもが、まさしく人間が自由に行動してよいとするならば、これは社会的存在者の意に反する。しかし現社会がこのような混合社会を形成していることは、必然と消されるべき人間もでてくる。この状況に「共生」を唱えても、馬耳東風である。

 逃避した者は後に引き返せないと思っている。思わざるを得ない状況にいるのである。それゆえ、第三者的優越存在が「みんな君のことが好きなんだよ」と言っても、余計に傷つくのは見えきったことである。それでも社会的存在としての群集に戻ること者がいたら、それは彼らが生きる意志を持っていたかというよりも、ただ亡霊のように生きる意志を消すこととして存立することを認めてしまったということである。

 社会的逃避者が社会に戻ることのできないのは否定できないことである、ということは社会の構造に刻み込まれている。それでも意志をもって逃避する、一歩距離をあける態度を取る行為は、それゆえに<脱>人間宣言を行った者でなければならない。



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第1章 (5)血と「我あり」

 この世の人間のほとんどが社会的存在者であるからこそ、この社会は成立している。或る者は目的のために生き、或る者は目的に押しつぶされ、そして或る者は自らこの社会から去ろうとする。現来社会というものは、血によって成立していた。親から子へ、世代世代。それが今では意識されていない。

 

血にまみれて人間はうまれ、おそらく血を介して人間は去っていくだろう。



 むしろ人間は血を眼前することが、人生でもっとも重要な認識なのではないだろうか。

 血に染まった手を見る人間。

 病棟にて。

 真夜中。

 独り。

 時間の流れはそこで止まる。

 苦しみは血によって最も美しく、時には残酷に表現される。

 我々がときに血を美とみる理由はここにある。

 そして自ら血を見ようとする者もいる

 或る者は無念の内に

 或る者は悲しみの内に

 或る者は死を喜んで受けいれた

 血によって我々はもっとも生を体現できる

 生は血である

 血は苦である

 そして生は苦でもある

 血をみることに「我あり」を見つける

 それでは、「我あり」を見つけるために血を流そうとするのはどうだろう。認められるはずもない。血を流すことによって「我あり」を見つけられない。それは自己満足である。血を見て生を体現すると、次の瞬間私は「不在」の状態になる。私にとっての私はもはや生を保つことができない。そうなれば、私であった私は、その周りの者によって生きることになる。それは語りによって行われ、共に価値を共有することになる。

 現代は血を直視することを嫌う。好ましく思われない。しかしそれは、血がもっとも我々に身近であるが故に、もっとも怖れなければならないものであるから。血は我々の内に流れ、我々と共にある。血を目の当たりにするということは、我々の日常生活が壊されるということである。日常性は血によって脅かされる。血とは日常にあってはならぬ。現代人にとっては、まさに脅威である。脅威であるが故に、現実逃避を血によって確認しようとする人間が多いのではないか。

第1章 社会的存在者の叙述 [2] 群集

 社会格差がどうという問題よりも、そうした二元論的な見方しかできない社会だということを悔やむべきである。結局は、お金の問題でした、という間抜けた理由で解決するのなら、そもそも政府は政府なりに、企業は企業なりで自省できただろうに。それをしない、という意思決定は、社会という場が共有地であり、我々の場である思い切った確信に基づき、公共性という重要な概念の裏に私有財産制という個人的な合目的な企てによって成立しているようにしか思えない。

 ところが本説においても、二元論的な見方を遂行することによって成り立っている部分は各所ある。まず、筆者が<脱>人間宣言をしたということによって、社会的存在者という現代人の必然的運命から逃れようとしている点、これはまさしく二元論である。そして、<脱>人間化された人間から観ると、この社会的存在者はさらに二つのタイプに分けられる。すなわち、勝ち組と負け組みである。管理者対労働者とも考えられる。

 社会的存在者は、多数性を達成できないので、群集をつくる存在でしか自己を保つことはできない。グループ化、組織化、そうすることによって自己を最大限に示すことができる。そうできない人間はそもそもこの社会で生きることを妨げられている。なぜなら有用性という観点から、役に立つかどうかで判断されるため。我々は生まれながらに、機械なのである。

 機械ではあるが、心もある。立派な人間ではないかと思われるが、言い切ってしまうと恐ろしいものがある。つまり、社会的存在者は機械的な労働をし、感情的に物事を言おうとする。関心は、すべて利益に直結し、助け合いの精神に於いても「誰の利益」を考えないと続かない。関心は我々を駆り立てるのではなくなり、我々が関心という幻想を創り上げなければならないのである。自分が欲したことを得ようとすれば、そのスイッチは自分で仕立て上げ、押すのも自分である。皆さんが好んで使う「客観的」という用語を使ってみれば、客観的に社会的存在者を観察すると、自暴自虐としての惨めな存在でしかないのである。

第1章 (3) 抑圧される存在と抑圧する存在

 <脱>人間宣言を行った人々は我々が知らないくらい無数に存在していた。社会からの逃避行動は、すぐその姿を消さなければならない、つまり<自殺>によって、達成されなければならないと考えると、いかにも世俗的な考え方だと思う。

 <抑圧>という言葉がある。これは<自我>という<私>と同義の用語の説明に使われる。<抑圧される>存在とは、まさしく我々人間のことである。これを引き伸ばすと、我々人間を<抑圧>しようとする存在もまた現れる。実際、<抑圧する>存在も同じくらい存在しているのだ。サド(S)とマゾ(M)という人間の性的な性質を二面的にみて、押し付けるような風潮は、現代人にとって目新しいものでもない。「あの人は性格からしてSだよね」と言うと、その一言によって本当は個人的な意見が拡大されて、周りの人間までも「あの人はSなんだ」と簡単に信じ込んでしまう。そうすると、ほとんどの人間関係とは、こうしたくだらないことによって成立していると考えられる。それ以外はお金で成り立っている、優しい言葉で言い換えるならば、<契約>によってである。血縁の関係は、現代人のあなたがたにとってどうでもいいことであるに違いない。

 性的な関係は、特に<抑圧>の観点から話すことはもはや無意味である。また人間関係もSとM、そしてニュートラルという3つの色づけで識別できない。むしろ人間関係は、抑圧<する><される>の関係でなしに、抑圧<し合う>関係なのではないか。それゆえ、いつも打ち負かされている人間でも、本当に何もできない人がいたら、「自分より無能なやつがいる!」と喜んで、勇気付けられるだろう。しかし、彼が惨めで、情けない存在であることは皆が同意することであろう。それではこれはどうか。リーダー的存在が我々に向かって「お前らは無能だ」と言い放つ場合、「なんでできないんだ?」と叱る場合。私は彼が成功者であり、その幻想から皆をまとめあげる<権威>をもっているのではないかと考えている。勝ち誇る存在は抑圧する。その権利ももっている。だから皆ついてこい。こうした関係性によって社会が成り立っているとすれば、この社会はくだらない社会である。

 抑圧<する><される>関係、そうした関係が何をもたらすかといえば、社会的存在者の確立である。すなわち、社会を協調ある(あえて共生という用語は使わない)ものにするには、社会的なルールに従う必要があるのだ。そんなことは誰だってわかっている。しかし<脱>人間=<脱>社会的存在の態度は、そのルールに対して、ただその視点をもって疑問をもつということである。

 抑圧とは人間を縛るものであり、人間的でありえないようなことを排除することである。それゆえ、そこには優劣というような問題は発生しないし、抑圧<し合う>関係も問題にすらならない。むしろこの抑圧とは人間本性に根ざしており、人間が生きることの惨めさを痛感させるための作用をもっているのだ、ということだけでも理解できれば幸いであると考えるのである。





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第1章 (2) 芸術に関して

 <脱>人間宣言をするということは、明らかに自分が無防備で、馬鹿にされることを準備しているようなものでもある。しかし、この態度こそが、自明性からの脱却、社会の認識のしこりの部分を取り除く方法の一つであるのだと思う。

 芸術でも、「これが芸術?」と疑問を投げかけるものがないだろうか。キャンバスに何も描かれていない絵画だとか、便器を置いただけで芸術的なオブジェだとか、音楽でも何分も沈黙するだけの楽曲だとか、実に最近になって、我々を疑問に感じさせる芸術品が出回っている。

 さて、こういう類の作品を芸術と認めるのか、ただの理屈野郎の作品だと決め付けるのかは、結局一人ひとりの<価値観>の問題なのだろうか。そうなるとまた「勝利宣言者」の手中に入ってしまうので距離を置こう。

 「『これが芸術?』と言える根拠は?」という問いは認められる。なぜなら問う自分も考えなければならないから。そうした中で、たとえば認められないとする人はどう答えるか。その逆も一緒なのだが。一般の人はきっと「誰か(権威のある人が)言ってたから」と答えるだろう。そうなるとすべてが怪しくなる。高慢にも、小説は、そして映画は「感動できて、美しい人が愛し合って、笑うところもある」ものとするならば、芸術とはさほど堅苦しいものでもなし、ただ人を楽しませるものになってしまう。もしエンターテイメントが芸術の域に侵入しているとすれば、それは「芸術」と呼ばれていたものがますます人間的なものに堕ちてしまっていると言わざるをえない。そう